現代小説クロニクル 2000~2004

良いシリーズだと思う。講談社文芸文庫は短篇のアンソロジーを定期的に出していて、この現代小説クロニクルは、そのなかの一環として5年区切りで名作短篇が集められている。

5年というスパンはかなり短い。純文学は時代を映し出すことも多いが、5年では時代の区切りとしては短い。とは言え、時代の最先端だったであろう綿矢りさ「インストール」は今の感覚からすればかなり古い。とは言え、5年もいくつか積み重ねれば大きくなる。当たり前だバカ。今だったらこういうのはツイッターかLINEかでやるんだろうけど、若さに価値があるのに、女子高生が大人のフリをしてしまうというのは当時の人間は理解できたのだろうか? 同級生を斜に構えて見て分析してる気分になって、あれとは違うと何かになりたがる高校生、という人物像は、もはや、ありがちすぎて、フィクション性が極まっている。ただし、フィクション的な人間になりたがる若者、というのは、まぁいるか。彼らは○○"ぶる"のだ。しかしチャHと呼べばいいのか、こういうサイバーセックスをするのに対して、随分と物語構造上の理由をつけている。必要だろうか? その意味では金原ひとみ蛇にピアス」の方が、セックスに対するフラットな感覚・描写が現実的(なのに、山田詠美の言う通り「ラストが甘い」。ドラマチックで通俗的なのだ)にも思うが、一方で優等生が援交をするのには理由が必要なのかもしれない。仕方ないのかもしれない。ところでこの二作の、身体性と、サイバーという非対称さは、既に語られていることだろうか?それともこれは非現実的という意味での類似点なのだろうか?

完璧なフィクションにしてしまうなら、堀江敏幸「砂売りが通る」が白眉だ。たったワンシーンを切り出すだけで圧倒的な背景を構築する。「それは、小説のつもりで書いたものではありません。文芸誌「新潮」(新潮社)で三島賞受賞作家特集があったとき、何でもいいですと依頼されて書いた原稿が、編集部の判断で創作欄に載せられた。「エッセイ」の枠でも全く問題無かったんです。文字にしたものには、すべて創作だと考えていますから。ともあれ、それで、僕は「散文」の書き手から「小説的な散文の書き手」として、やや小説寄りに分類された」ものらしい。ここにあるのは物語構造ではない。場面を、主人公が昔と記憶の中で照らし合わせる。が、「時間が、そこでいきなりよじれた」。短篇ならではの凄さだった。

感想はそのくらいです。