長沼毅『死なないやつら 極限から考える「生命とは何か」』

本書の趣旨としては、なかなか死なない生物というのがいるというところが始まりだったはずだ。つまり、有名なのがクマムシだが、ネムリユスリカの幼虫は同様にトレハロースを体内に増やすことで乾燥状態でも生きられるようになってるし、あるいは微生物(バクテリアアーキア)はもっと強い。好熱菌は122℃でも増殖が確認されたものもいれば(安定したコドンを選ぶ)、尋常でないほど高い気圧にも重力にも耐える大腸菌タイタニック号の沈む深海で発見されたハロモナスと呼ばれるバクテリア(鉄からエネルギーを作り出している)は、熱さも寒さも塩分も耐えられたりするのだ。あるいはけた違いの放射線に耐えるデイノコッカス・ラジオデュランス、紫外線に耐えるハロバチルス、油の中で生きたセキユバエなどが紹介される。

しかしその後がややまとまりが悪い。それは著者もあとがきで記している通り、書けなかったがゆえの苦肉の策として、極限生物がなぜこのような生物になったのか、という疑問から派生して、進化論的には生物の変化を検討するようになってからだ。結局、進化論においては、別に生物は環境変化に合わせて進化するのでなく、突然変異としてゆるやかに進化して、それに合わせて環境変化に対応するライフスタイルが変化した。そのなかで、遺伝子から考えたとき、利己的な遺伝子というより、周りと協調的であった生物こそが生存に成功した。それが生存とは無関係な極限生物が生まれ、生き延びてきた所以であり、この辺りまで読むと、なぜ極限生物が「そう」なのか、という本書における疑問は、単なる進化論、生物の起源の説明における導入、話の枕に過ぎず、論旨には何も影響してこないことが分かる。

そこからもう一段話は拡大し、生物とは何か、がプリゴジン的なシステム・散逸の話、あるいはエントロピーについて膨らんでいく。シュレーディンガーによれば、エントロピーが増加する世界において、負のエントロピーを食う生物とは世界の法則に逆行する存在であり、同時に、誕生が非常に奇跡的な存在でもある。鋼の錬金術師のように、必要な無機物を集めて電気を与えても、有機物は作れても出来るのは泥であり、生物のようにはならなかった。一方で微生物に人工DNAを移植するとその新しい生物は生き延びることができた。つまり、「ガワ」さえあれば偽物のDNAでも生物なのかもしれない。しかしこのガワは、人間の場合、10年で入れ替わる。生物の同一性はどのように担保されるのか。

生物とは自己増殖すること、および複雑なネットワークに伴ってロバストであること、という特徴がある。生物は安定してはいないが、そうした準安定状態を保有しながら生きており、こうした極限生物という存在を鑑みると人間が生きられないような過酷な宇宙環境でさえ、生物の存在する余地はあるのかもしれない。

という内容でした。個別のエピソードは面白いのに、まとまりがなく、死なないやつらの分析が浮いているという、なんとなく勿体ない本という印象が拭えない。

死なないやつら (ブルーバックス)

死なないやつら (ブルーバックス)