細谷雄一『安保論争』

専門家が自分の専門領域について語るよりも、案外他所の領域について語った方が分かりやすかったりすることが間々ある。 

正直言って、細谷先生が外交について論じるなかで、ここまでイマイチだったのは初めてかと思う。ベストは博論を書籍化した『戦後国際秩序とイギリス外交』。これは、史料を精緻に分析してイギリス外交(とヨーロッパ外交)を面白く再構築した傑作だった。様々な史料を渉猟して謎を解消していくときの書きぶりは、ミステリーを読むときの興奮に近いものを覚えさせてくれた。一方で本書のような現代外交を語るとなると、コツが違ってくるのだろうか(ブレア外交について語った『倫理的な戦争』もあるが、あれも外交史的アプローチに近い)。そもそも種々の雑誌への寄稿を一緒くたにした新書、という性質もあり、冗長で重複も多い。しかし問題はそこではなく、序盤の書き下ろし部分だったりする。

後半の、集団的自衛権に係る憲法解釈についての史的展開と、それからなる法制局批判は、非専門領域ながらなかなか悪くない。素人にも分かりよく、問題点がはっきりしている。憲法学者の書いた違憲一辺倒本よりも冷静だ。一方で、専門領域である(と言っても日本外交は彼の専門というわけではないが)外交に係る論述はあまり筋が良くない。SEALDS嫌いとそれに同調するメディア嫌いで熱くなりすぎて、結論が先走りすぎてしまっている。SEALDSがどういう風に安全保障環境を考えているか分からない、というのには賛同するが、だからと言って、それをそのまま「分からない」と書いてしまうのでは、自身が後半で批判した、論敵の意見に耳を閉じるメディアと同じではないのか。「分からない」なら聞きに行けば良い。そして逐一反駁すれば良いのだ。残念ながらそれは出来ていない。

また日本の外交アイデンティティを「平和国家」に求め、「国際協調主義」や「積極的平和主義」を掲揚するのは分かる。だからこそ安保法制だったのだ、と言われれば納得も出来るし、後はそのアジェンダと、運用手段の是非について議論し合えば良い。しかし、かと思えば、中国や北朝鮮と言った脅威に対して、米国の消極的な姿勢から「力の真空」が生じて秩序の不安定化に警告を与えて、軍事力強化を訴える(当然それだけではなく、中国を真っ当な方向に促すようにも言うが)。安保法制が11本の法制を束ねて提出したから仕方ないと言えば仕方ないのだが、論敵にとっては、そこをごっちゃにされてしまうと説得力は低いだろう。

大筋や主張に不満はないけど、このロジックでは、「平和論者」が良く作る、ターゲットの読者は身内だけであり、論敵には響かないというタコ壺本に過ぎないと思う。

 

安保論争 (ちくま新書)

安保論争 (ちくま新書)

 

 

AL『心の中の色紙』

ここ一年、個人的に最もよく聞いている邦楽ロックは、andymoriだったりする。黒沢ともよ(声優)のラジオを聞いていて、ちょこっと話題にのぼっただけではあったけど、試聴してみたところ予想外に良くて、それから一年間ひたすら聴き倒している。
小山田壮平は、珍しく、古いタイプの強烈なカリスマ的存在だと思う。ドラッグでやられて奇行を繰り返す不安定なロックスターとは、随分懐かしい在り方である。また決して上手い人ではない。歌い方も。曲作りも。やや高音で、音程は不安定で、曲作りはごりごりロックバンドというよりも、日本に伝統的な、フォークとポップスが融合したロックとでも言えばよいか。
何よりも特徴的なのは歌詞だ。歌詞はだいたいパターン化してしまっている。いつも使うフレーズというのがあって、everything's gonna be alrightとか、頻繁に口をつく言葉がある。言ってしまえば、ひたすら自己模倣を繰り返す。ファンは大概、歌詞の意味が分からないことに喜んでいるようにすら見える。ほとんど一曲通じて歌詞に意味はないのかもしれない。それでも歌詞の力が強くて、意味のとれない単語をサビに合わせて連呼して、結果として頭にこびりつく。小山田壮平の感じている不安は、そのあたりにあるのかもしれない。

「1984 花に囲まれて生まれた

疑うことばかり覚えたのは戦争映画の見過ぎか

親たちが追いかけた白人たちがロックスターを追いかけた

か弱い僕もきっとその後に続いたんだ」

andymoriの名盤「1984」のオープニング曲、「ファンファーレと熱狂」にて小山田が歌い上げたこの詩は、もしかしたら、模倣的でフィクショナルな自分の在り方に漠としてきたのかもしれない。

その小山田も1984年生まれだから既に30歳を超えている。ALはandymori解散後、andymori初期メンバー+小山田の友達で構成されたプロジェクトである。andymori時代から徐々に音楽性に角が取れてきていたが、ALには安定感が見られる。そもそもツインボーカルなので、小山田は実質半分しか歌ってない。その代わり、強烈で、頭に残る、そしてかつ意味の分からないワードは少ない。友達が隣にいて、心が落ち着いているのかもしれない。何だよ、そんなに不安定なフリして友達いるのかよ、ずるい。

 

心の中の色紙

心の中の色紙

 

 

『アステイオン』84号

雑誌業界は、衰退の一途を辿っているとは言え、まだまだ世の中にはとてつもない数の雑誌が出回っている。バカみたいに種類があるのにも関わらず、そして興味のある向きは多いにも関わらず、国際政治について手厚くカバーされた雑誌は思いの外、少ない。イデオロギー臭のきついもの、あるいはミリタリーファン向けの兵器中心のものを除くと、ほぼ選択肢はないのが実情であろう。唯一の外交専門誌である『外交』(旧『外交フォーラム』)は、悪くはないがやや紙幅が薄い。

その中で、ここまで一昔前の「教養」の薫り漂う雑誌とは稀有な存在である。本書は、哲学者・山崎正和を中心に、中央公論編集者として名を馳せた粕谷一希を編集長として、サントリー文化財団のスポンサードで作られている。ダニエル・ベルも編集に名を連ねるのだから、その執筆陣の豪華さには舌を巻く。84号では、創刊当時のことを山崎正和が振り返りながらインタビューに答えている。

いつでも国際政治がテーマの中心となる訳ではない。今のアステイオン編集委員は、田所昌幸を編集長として、池内恵苅部直張競細谷雄一、待鳥聡史が編集委員であるのだから、面子はかなり国際政治に寄っている。とは言え、学問としての国際政治的なアプローチの号は少なく、ここのところは”グローバル”を意識したテーマが多くなっている。(参考:83号「マルティプル・ジャパン」、82号「世界言語としての英語」)

かつてと比べて、より人文科学的な傾向が薄くなったのは、単に編集委員の好みなのか、あるいは時代の要請なのか。未だにハイレベルな紙面が続いているが、もし後者であるのならば、その余裕のない時代には思うところがないわけではない。84号は「帝国の崩壊と呪縛」がテーマであり、中東のテロリズムに端を発した論考ばかりがずらりと並ぶ。全体的に読み応えがあったが、これが時代の要請に反応しすぎた結果なのだとしたら、屈したことになる。とは言え、アステイオンの面白さは、必ずしも一筋縄ではいかないところにある。

ジル・ケペル「欧州ホームグロウンテロの背景」

池田明史「溶解する中東の国家、拡散する脅威」

小泉悠「ロシアにとっての中東」

廣瀬陽子「帝国の落とし子、未承認国家」

岡本隆司清朝の崩潰と中国の近代化」

齊藤茂雄「古代トルコ系遊牧民の広域秩序」

森井裕一「国民国家の試練─難民問題に苦悩するドイツ─」

 

特集はこのラインナップ。まさか清朝や、トルコ系遊牧民の話題まで広がるとは思わまい。ここがアステイオンの良さだ。今後も政治学の論考が読みたいが、しかし政治に寄りすぎない教養書の迫力を出していてもらいたい。

 

アステイオン84 【特集】帝国の崩壊と呪縛

アステイオン84 【特集】帝国の崩壊と呪縛

 

 

ティモシー・ガートン・アッシュ『ダンシング・ウィズ・ヒストリー』

英国がEUを脱退した。

珍しく、今を時めく話題から始めてみたが、様々なしたり顔の論者が既に紙面を己の筆で彩っていることだろうから、私から言えることなどほぼ無い。しかしながら、この問題は、TGA(Timothy Garton Ash)がやや語っていた話ではあったので、本棚から引っ張り出して再読してみた。

TGAは英国の歴史学者であるが、どちらかと言えばジャーナリスティックな手法の人物であり、ガーディアン紙なんかにコラムを載せている。彼の碩学と、それでいて持って周った語り口調にはファンも多い。

彼の特筆すべき業績は『ヨーロッパに架ける橋』だろう。これはブラント外交期の西ドイツについて、丹念にかつレトリカルに描き、いかにブラント首相のデタントが冷戦終結まで導きうるものだったのか、を示してくれる。

そんな彼であるが、英国のEU脱退については以下のようなコラムを書いている。

www.theguardian.com

 

さておき、英国はEUを脱退した。本件について、一番分かりやすかったのは遠藤乾先生の記事だった。イングランドの低学歴層にとって、移民問題がどのくらいリアリティのあるものだったかだけでなく、EEC参加の頃まで遡り、保守党にとって長らく政治的不和の種となっていたことを解きほぐしてくれている。

toyokeizai.net

 

TGAは本書において、10年前から既にこの問題に警鐘を鳴らしていた。それは、デヴィッド・キャメロンが影の首相になったときであり、EU憲法の問題が持ち上がって各国にて否定の声が上がっていた頃である。彼は、キャメロンが保守党内部で、EU問題を棚上げした暁には、火種になることを予言していた。

多くのイギリス人は、ヨーロッパを他所として見ていた。他所として見ていただけでなく、ヨーロッパに参画したくない、とすら強く思っていたのである。そして当時は、英国とロシアのみがこうした傾向を持っていた。しかし今や、フランスのルペンしかり、オランダのワイルダーしかり、他にも同様の志向の人物が賛同者を得始めている。もはや英国固有の問題ではなくなった。

またTGAは拡大するEUについて、拡大すればするほど、その集約のコアが希薄化していくことも述べていた。どんどんEUの持つ政治的な同一性の夢から目覚めていっている今を鑑みれば、それもむべなるかな、と思う。

と書いたものの、本書はそれだけではない。10年間書き溜めたエッセイが詰まっており、中東のテロリストもいれば、米国政治への痛烈な批判もあれば、いつも通りのオーウェル、バーリン愛を語ってもいる。英国人らしい言い回しで、日本語で読んでもなかなか読み解くのが難しいが、こういう知識人が存在していられる英国という国は、まだまだ立派なものだと感服するのである。

 

ダンシング・ウィズ・ヒストリー―名もなき10年のクロニクル

ダンシング・ウィズ・ヒストリー―名もなき10年のクロニクル

  • 作者: ティモシー・ガートンアッシュ,Timothy Garton Ash,添谷育志,葛谷彩,池本大輔,鹿島正裕,金田耕一
  • 出版社/メーカー: 風行社
  • 発売日: 2013/08
  • メディア: 単行本
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筒井康隆『ビアンカ・オーバースタディ』

4年ほど前、ライトノベル界とSF界、文学界が騒然となった。「筒井康隆御大がライトノベルを書くらしい」。 しかし、よくよく振り返ってみれば、そう違和感のあることでもない。ヤングアダルト向け(ライトノベルの昔の呼称と言って差し支えないと思う)というか、”それ”っぽい小説(『時をかける少女』なんかが該当)はこれまでも御大の手により書かれてきており、それに、いとうのいぢの挿絵が付いてくるだけだろう、そう考えていた。

 

そこで当時、どこかの雑誌に連載されていたのだと思うが、─調べたところ、ファウストに連載されていたらしい─、立ち読みしてみた。ポルノグラフィと見紛うような性的な描写しかなくて、御大らしい書きぶりとは言えるが、残念ながら御大とは老人の呼び名であることを想起させるに十分なものと言えた。憂鬱な気分に陥った。

あれから4年経ち、文庫化される運びとなった。4年前と言えば前回の夏季オリンピックが開催された年であり、つまり4年は、前回の興奮など忘れて楽しめるだけの長さの期間なのである。逆を言えば、つまらないと感じたこの感情も、再度新鮮に味わえてしまった。

 

深読みしたい勢は、これをメタラノベだと言う(文庫版にはあとがきが無いが、ハードカバー版では本人のあとがきに、はっきりとメタラノベだと書いてあったらしい。なのでその読み方は正統的でもある)。

作中では、章の始まりが稚拙なリフレインとなっており、これは出来の悪いライトノベル業界の表現への警句とも読める。また、アニメやライトノベルばかり読んで生身の女性に手を出さない草食系男子への批判とも読めることが書いてあり、それに反するように、猥雑な展開が繰り返され、ビアンカは男性器を扱くのだから、言わんとすることは分かる(ポルノグラフであるラノベ批判とも、ラノベ読者批判とも捉えられようか?)。本文中に色々毒づいているし。ご本人もそのつもりで書いているのかもしれない(ハルヒに影響されて書いたとは、『創作の極意』か何かに書かれていた気がするが、ハルヒはそんな小説では無かった。変なドラッグでもやりながら読んだのだろうか?)。

しかし、それではあまりにも杜撰で、そんなメタなら最早無いほうがマシだ。素直にライトノベルとして読めば、爺の爺っぷりが目に付く。表現が古すぎる。話し言葉があまりに現代的ではない。キャラクターが死んでいる。タイムマシンを使ってはいるが、SFとしては見るべきところはあまり無い。今のライトノベルは、これよりまともなSFはあるのでは、と思ってしまう(と言ってもライトノベルの優れた読者ではないので、詳しくは言えないが)。ラノベとして面白く読めないのに、メタラノベとしては読めるから許容しろともし言うのであれば、擁護の仕方を間違えたファンは、小説家を殺しているに過ぎない。

御大ファンかどうかで評価は大きく分かれるだろう。私はイマイチ。

(以下はあとがき)

筒井康隆『ビアンカ・オーバースタディ』あとがき Illustration/いとうのいぢ | 最前線

 

 

O・A・ウェスタッド『グローバル冷戦史 第三世界への介入と現代世界の形成』

ブクログに書いていたけど、もうブクログを使っていないので、こちらにそのまま輸入した。 

 

世の中に「アメリカは嫌いだ」という日本人は思いの外たくさんいるよう見受けられるが、一体全体どういう訳かと訊くとそれはあたかも陰謀論めいていることがままある。それは確かにそうだろうが、その根拠はそれでは何であろうか。
 近年で言えばそれはイラク戦争が非難の理由に的確に当たるだろう。それより遡るとベトナム戦争なんかが挙げられるかと思う。しかしながら、ベトナムを自分勝手なアメリカと称する根拠にするのは簡単であるが、本当にそれは単なる利己的な行動であったと言えるのか考えると、それは途端に怪しくなる。ではどうやってアメリカを責めればいいのか、と勘案すると、そこで根拠のない陰謀論というやつが幅を利かせることになるのだと思う。

 本書は世界的権威の冷戦史研究者による、本格的な冷戦史に関する著作である。タイトルが『グローバル冷戦史』とあることからも解るように、これは「グローバル」な範囲にその説明領域を広げた概説である。即ち、正統的な冷戦史が常に陥りがちな、欧米中心の史観から脱却し、世界大をその説明領域にしている。ではあるが、あまりこのタイトルは適切な感じがどうにもしない。それよりもサブタイトルが『第三世界への介入と現代世界の形成』となっているが、こちらの方がふさわしいのではないか。そのくらい、本書はアメリカとソ連という二帝国による介入についての叙述が中心となっており、その理解が現代世界の抱える問題について了解するための一助となるように出来ている。
 ここでレビューの冒頭の話題に戻るが、本書における介入の具合を読むことは、帝国による自分勝手さを非難する武器となりうるのではないかと思う。本書の構成は以下のようになっている。一章がアメリカという自由の帝国の成立、二章がソ連という公正の帝国の成立、三章が植民地における革命家の登場が描かれ、そして四章から十章までが詳細な介入の歴史になっている。ここでの対象は、中東、ラテンアメリカキューバベトナムアンゴラエチオピアなどなどとにかく切りがないのだが、筆者のウェスタッドは様々な国について、アメリカ旧ソ連イギリスイタリア旧東ドイツユーゴスラビア南アフリカ中国などの一次資料を用いて説明しているのだから、とてつもないとしか言いようがない。そしてこの丁寧な仕事から様々な帝国たちの悪行が顕わになるのであり、これは冷戦という形をより広い視野で捉えることに挑戦した偉業とも言える。本書はバンクロフト賞を受賞した。

 しかし難がないわけではない。まず何よりも、これは冷戦史とは呼べないだろうという点がある。即ち、各国で起きた事例について帝国がどう介入したか、というだけでは、これまでの冷戦史とは逆の意味で、冷戦の一方しか語っていないと言える。そのため本書は、あくまでこれまでの正統的な冷戦解釈に対する補完的な役割という色合いが強い。それからどう介入したかを読んでアメリカは酷いと直感的に感じるところはあったが、しかし彼らがいなければうまくいったかと想定すると、決して事はそう単純でないことも解る。行動の倫理性よりも、その行動がもたらした結果について明らかにしなければならないのに、うまくいっていない。それでも帝国の介入志向を訴えるためにはある程度彼らの行動の源泉を単純化しなくてはならないのか、起こった事例については詳らかでも、米ソ内部についてはとても単純になっている。オーソドックスな冷戦史が重視してきたところを無視した結果とも言えるが、資料の詳細さに対してとても残念な部分だった。

 

グローバル冷戦史 ?第三世界への介入と現代世界の形成?

グローバル冷戦史 ?第三世界への介入と現代世界の形成?

 

 

石川文康『カント入門』

世の中に、カントの新書は意外や少ない。カントという名前の知名度はおそらく哲学者の中でもトップクラスかと思われるが、でも、では実際にどういうことを言った人なのか知っている人も、同じく少ないのだろう。

本書は、著名なカント研究者(だった)石川文康氏によるカントの入門書という位置づけにある。しかし、さらっと読めるものではない。三批判のみならず、幅広にカントのエッセンスを説明しており、逐一色々な用語を説明してくれるのはありがたいが、初学者にはどこが問題意識なのか、ピンとこないまま整理立てがノンストップで進んでいく。どんどん、「この問題をこう捉えたカントは、これこれについてはこのように捉えた」のように、新しい説明を追加してくれる。野菜マシマシ状態だ。私は二回読んだ。

 

まとめると、、、

根幹は4つのアンチノミー論。即ち、理性に基づき推論されたものが、結果として二律背反を引き起こす、ということから、理性批判を開始したカントは、時間と空間を直観(感性)の形式と捉えた。ではどのように人間は、物体(主語)と述語を結び付けて認識できるか、というと、そのためには総合判断が必要になる。そしてアプリオリな総合判断のために、カテゴリー(人間の思考の根本枠)が必要になる。

では、第3アンチノミーである、自由による因果性がある⇔すべて自然法則によって起こる、という問題はどう捉えるか?というと、人間は理性界(物自体)と感性界(現象)の双方に跨っている、という事実からこの問いをクリアする。つまり、自然因果を現象界に、自由のありかを英知界に配するのだ。そしてカントは、倫理において、仮言命法(AならばBすべし)を認めず、定言命法こそを必要なものとしているが、定言命法における条件付けの不在こそが、意思を「自律」たらしめるのである。そうして自由は道徳法則の存在根拠であり、かつ道徳法則は自由の認識根拠、になる。

しかし、人間の行為のみ目的が設定され、自然の因果的現象には目的は存在しないはずなのに、自然は非常に秩序だって動く。これが合目的性である。これにより、認識能力→知性→合法則性→自然、行為能力→理性→究極目的→自由、に対し、感情能力→判断力→合目的性→技、が整理された。主観的でありながら、アプリオリで普遍的な判断力という訳である。このためには「共通感覚」(このバラは美しい、等)が肝要になる。ところで、目的の設定者は人間である限り、人間の目的は人間とならざるを得ない。

第四批判として、宗教論がある。カントの認めるものは唯一、理性宗教である。人間が道徳的陶冶を実現するには、人間が根源悪であり、そして回心を通じて善への道を取ることが必要である。そのための理性宗教であり、カントは、原罪のような宗教的概念を認めないが、そのうえで啓示宗教は「みずからをあらわにする」ものとして肯定する。その理屈から、キリスト教を唯一の理性宗教たりうるものと認めつつ、「神の子」という理念(理性概念)は、(イエスの実存といえども、)あくまでわれわれ自身の理性の内に求められなければならない、という非常にラディカルな結論に至る。宗教的儀式とはあくまで手段であり、あくまで目的は義務遂行であり、多くの宗教とは、言い津の理性宗教に対する多くの信仰形態に過ぎない。こうした発想の発端は、ルソーを経験してことでの回心により、「独断のまどろみ」から目覚めたことに由来する。

 

新書まるまる一冊を要約というのは、ちょっと無茶だったかもしれない。頑張って書いたはいいけど、結果、よくわからないものになってしまった…。

 

 

カント入門 (ちくま新書)

カント入門 (ちくま新書)