カズオ・イシグロ『日の名残り』

古き良きイギリス、というのが時代の陰に退く中、社会を動かしてきたイギリス人に仕えていた、伝統と格式を備えた執事は、新たにその邸宅を購入したアメリカ人に傅く。そんな時代が本作の舞台である。

E.H.カーは、『新しい社会』(岩波新書)の中で、「今日のイギリスには、泥水へ落ちて行くことを心配するよりシルクハットを風に飛ばされるのを心配する老紳士が澤山ゐるのです」「傳統を重んじることは結構ですが、傳統で窒息したらお仕舞です」と、ラジオリスナーに訴えかけるシーンがあるが、まさしく戦後のイギリスとは、そういう国家だったのだろう。

本作で、完璧な執事とも言えるスティーヴンスは休暇を利用し、かつて館で働いていたミス・ケントンに会いに行く。その際、戦前に仕えていたイギリスの重鎮・ダーリントン卿のことを頻繁に思い出す。卿は、正義に基づき、品格をもって外交を行った。ドイツ人外交官と多く対話し、平和に努めた。そして空回った(史実はご存知の通りである。)。スティーヴンスは矜持を胸に、執事の業務を遂行してきた。彼は、旅行中、そうした過去を思い出し、まるで自分のやってきたことを正当化するために、誰かに言い訳をするかのごとく、独白する。そして読み手は、彼が自信をもって語っていることが、本当は彼が思い悩んでいたり、何やらコンプレックスを抱えていたりすることに気付く。読み進めていくごとに、かつての華々しい執事業への未練や、一方でその肩肘を張った在り方に無理が生じていたことが露呈する。

そう、上手い語り口で過去と現在を行き来することで、カズオ・イシグロは、スティーヴンスの一人称が必ずしも本音を語っていないことを巧妙にも表現している。所謂、「信頼できない書き手」の手法である。しかし本音ではない、からと言って、それは嘘とも限らない。背筋を伸ばして生きていかなければならなかった執事の、その生き方として、この独白は単なる嘘ではないし、本人は下手したら嘘とも思っていなかったかもしれない。かつても、今も、どちらも肯定しなければならない中で、執事の明記されない葛藤は、最後、日の名残りを眺めながら、少し未来を向くようになっていく。

1989年ブッカー賞受賞。1993年映画化。

 

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

 

 

カプースチン 自作自演集『8つの演奏会用エチュード』

あまり、ジャズに造詣が深いわけではないが、クラシック好きからすると、有名なジャズ作品。(と言っても、私はそこまでクラシックマニアではないけど)

カプースチンウクライナホルリフカ出身で、モスクワでクラシックの正統的な教育を受けた人物である。ロシアでジャズ、というのは非常に違和感のあるフレーズに聞こえる。 ジャズと言えば、アメリカ黒人音楽がルーツの音楽で、20世紀のロシア、当時のソビエト連邦はクラシックの正統的な教育が非常に熱心な国家だったことを考えると、接点は無さそうである。(しかし、ロシアでクラシックの専門教育が始まったのは19世紀後半であり、他のヨーロッパ諸国よりも遅い)

では、カプースチンはどうやってジャズを知りえたのか。それは彼が、ヴォイスオブアメリカ(VOA)による放送を学生時代に聞いたことによるらしい(1950年代?)。冷戦をVOA(プロパガンダを目的とした、アメリカ発信のラジオである)などを通じた文化浸透から分析しようというアプローチは、最近ではちょこちょこ出てきている。いわゆるソーシャル・デタントとして、つまり冷戦の緊張緩和は市民どうしの交流を受けた、「下」からの運動が重要だったという議論であるが、VOAを聞いてカプースチンみたいな人物が出てきたというのを聞くと、どこまでデタントに役立ったかどうかはさておき、全く効果が無かったわけではないのかもしれない、などと、ちょっと見直した。

ともあれ、カプースチンは、ろくにジャズの勉強もしてはいない中、ラジオ音源だけを元に、ジャズを構築した。おそるべき執念だと思う。いわゆるジャズ、というよりも、クラシカルな構築感は強い。アドリブはなく、全て記譜されており、インプロヴィゼーションには興味もないらしい。

ただ、使っている和声や、リズムの取り方はクラシックではない。ジャズでも、名ジャズピアニストによる、あの枯れた、スウィングするリズムの感じというよりも、とにかくハイテンションで、音数が多く、聞いてて気持ちのいいタイプ。

たぶん、古いジャズよりも、最近のジャズピアノを聞いているひとの方がむしろ受け入れやすいと思うのだけど、いかがだろうか?

 

日本へは、東大ピアノの会が紹介したことから火が点いた、というのが専ら言われている。アムランを紹介したのも彼らだったが、アムランがカプースチンを弾いていることとは関係があるのだろうか。

と思って検索していたら、こんなものが。

Kapustin "Eight Concert Etudes For Piano" Op.40 楽譜入手エピソード

ペトロフが切っ掛けだったのか。知人から楽譜を入手してもらい、そして、その後、アムランからアルベニスカプースチンの楽譜を入手。なるほど、こうやって繋がるのか。こういう行動力がある人は凄い。

 

自作自演集「8つの演奏会用エチュード」

自作自演集「8つの演奏会用エチュード」

 

 

池内紀『カール・クラウス』

池内紀という人の書くものは大概面白い。ドイツ文学まわりではピカイチだろう。その池内紀による若書きの著であり、「大学を出てから二年ほどして」「「教授資格取得の」ために」書いたものだそう。しかし、カール・クラウスという名前は、思想まわりを勉強したことがある人を除いて聞いたことのある人はいないのではないか。20世紀前半のウィーンでとにかく論争をしかけた有名な変わり者らしいが、明確に「これ」という定まった思想のある人ではなく、彼の思想のフォロワーが存在するわけではない。ひたすら900号あまりの、『炬火(ファッケル)』という批評活動の個人誌を出し続けたと聞くと、よくもまあ、そんな批判を繰り返したものと少し呆れる。

本書を読んでいても、シニカルで、ことばにとにかく含みを持たせる嫌な奴というのがまずもっての印象だった。しかし、そんな捉え処のない人物が、いまだ21世紀の日本で尊敬を受け続けるのは、戦争を批判し、政治家や資本家と癒着した新興ジャーナリズムを叩いたその事実であり、その徹底した確固たる態度があったからだろうか。当時、彼にはかなりのファンがついていたらしい。その舌鋒の鋭さは当時の知識人に受けた。偉くて、賢い人物が、批判の矢面に立つ批判家さんを見て「そーだ、そーだ」と声高らかに叫ぶのは、今でもよく見る構図だ。しかし同時に、わざわざ現代の日本人が読む必要があるかどうかは、知らない。
 

 

新井英樹 『RIN』

世の中に、高尚な漫画読みが好きな漫画家というのがいる。 近づきたくない世界だが、確かに存在していて、ユリイカに特集されてしまったり、インテリ有名人が読んでます宣言していたり、オサレ雑誌に載っていたりする、ああいうあれのことだ。

新井英樹もそういう”あれ”に属する漫画家かと思うので、個人的に、苦手意識は強い。強かったんだけど、読むと認めざるを得ないなーというのが悔しかった。

これの前作に当たる『SUGAR』は、田舎の少年が都会に出てきて、ボクシングで成り上がり始めるまでの話、ということで、普通と言えば普通。天才ボクサーの片鱗を端から見せる主人公リンの、一方的に捲し立てるコミュニケーションとか、外連味になる部分が無いわけではないが、ものすごく特筆するほどでもなかった。

比べると、『RIN』はリンがチャンピオンになってからがスタートである。中心ストーリーは、チャンピオン立石譲司との対決であり、ネタバレをしてしまうと、天才が努力家を圧倒する。リンはひたすら天才であり続ける。そして天才は唯一であるからこそ、孤独感に陥る。天才を刻銘にするために、立石の人生が描かれ、対比される。立石には嫁がいて、応援してくれるファンもスタッフもいる。元極道から這い上がって、そしてボクシングのチャンピオンにまで成り上がったという更生物語の主人公だからだ。対してリンには何もなかった。そして、そんな彼が寝取られるのは、必然だった。

作中で、唯一リンが似ていたのが、同じく天才・中尾である。リンのセコンドであり、風俗狂いの中尾の行動をなぞるように、リンもまた風俗に狂う。誰にも理解できない彼の気持ちを唯一理解できたのが、中尾だった。

しかし、リンはチャンピオンになり、世界のヒールとなったような描写がある。これは中尾とは違う。また、自分に似ていると言われるジムに通いたがる若者を、仲間引き連れて知った風を聞くなと退ける。中尾に似ているが、中尾は言ってもジムの代表である。もっと言うと、SUGARでは火の玉玲二に見出されてボクシングを始めたわけで、理解者はいたはずである。その意味で、天才だから孤独になったというよりも、孤独”感”に陥った、と言えなくもない。そういう、天才の心情を上手く描く作品であり、もがく立石を受けて、リンがボクシングリングのみに居場所を見出すまでのクライマックスは見事だった。

 余談ばかりしてしまったけど、残念ながら、面白かったよ。

 

RIN 1

RIN 1

 

 

Yefim Bronfman Plays Prokofiev Concertos and Sonatas

ブロンフマンの手による、プロコフィエフピアノソナタ全集、ピアノ協奏曲全集のボックス。

イェフィム・ブロンフマンと言えば、ロシア系イスラエル人ピアニストであり、そのスケールの大きさと正確無比な演奏は、ヴィルトゥオーゾの多い現代においても評判が高い。ラフマニノフのピアノ協奏曲3番(ピアコン3番)の演奏は、ホロヴィッツの1951年版を差し置いて、決定盤と言えるレベルである。

しかし、スタジオ盤ということで、このBoxは若干のパワー不足は否めない。技術は落ちても、リヒテルのライブ演奏の方がドライブ感が強い。たぶんライブで聴くと迫力が違うのかもしれないので、勿体ない。打鍵の正確さは文句無しで、非常に音離れも良くて、聴いていてソリッドなプロコフィエフというのを味わえるのは確かなのだが、6番の4楽章や、8番の3楽章、あるいは3番といった、とにかく疾走する楽曲は、それまでのソリッドなプロコフィエフに対比される、ダイナミックな一面があるはずなのだけど、そのへんがちょっと弱い。好みの問題ではあるのだけど。

とは言え、戦争ソナタの中でも、あの7番3楽章の、7拍子できもいアクセント(プロコフィエフに対する最高の褒め言葉)をこのスピードで弾き切るというのは、流石の一言に尽きる。

 

 

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ドン・デリーロ『コズモポリス』

自称・金融クラスタでもあるので、であれば一度読んでおこうと思って目を通したデリーロ『コズモポリス』。初デリーロ。ポール・オースターなんかと並んで(というのは、デリーロが『リバイアサン』でオースターに献辞しているから)、偉大なる現代アメリカ文学者として、ノーベル文学賞の候補にも挙げられる人物だが、私の手には負えず、流し読みした。

クローネンバーグによって実写映画化されているらしいけど、そちらは未視聴。

金融ディーラーであるエリックが、リムジンに乗りながら、セックスしたり、襲撃されたり、髪を切ったりする。エリックは、延々と質問と回答が噛み合わない会話を繰り広げ、身体的な実感の湧かないまま、円取引で損失を被る。このリアリティの無さを文学的な手法から風刺しているんだろうが、金融周りの話は薄く、彼の仕事のリアリティ・説得力はあまり無い。

立派な批評はアマゾンレビューに任せます。暇と精神的な余裕があれば、いつか再読するのかもしれない。

 

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