悠木碧『トコワカノクニ』

ピンク・フロイドは名盤『狂気(dark side of the moon)』を製作した後、かなりの迷走をしたらしい。電子楽器をひとつも使わずにアルバムを作ろうとか考えもしたが、結局、元フロントマンであるシド・バレットに捧げる『炎(wish you were here)』という、前作よりもややロッキンなアルバムになった。これは試みなかった成功例として語り継がれている。

炎 ~あなたがここにいてほしい~

炎 ~あなたがここにいてほしい~

 

 

悠木碧は1stフルアルバム『イシュメル』という声優業界で近年稀に見る名盤を作り上げた後、恐らく悩んだのではないだろうか。ピーターガブリエル期のジェネシスにも似た、過剰な演出のシアトリカルなプログレッシブロックとも言える作風で通巻した作品集は、もう「やりつくした」と言ってよいくらいのものだった。そのなかで出された3rdミニアルバム『トコワカノクニ』だが、ケルト神話を語源に取っているが、音楽性も歌詞もあまり繋がりはない。テーマはキメラ、らしい。同じ70年代プログレでも、音楽性はgentle giantが近いのでは、と踏んでいる。

オクトパス

オクトパス

 

むしろgentle giantよりも振り切っている部分すらある。即ち、変拍子が刻まれる音楽は、いっさいの楽器を使わず、ただ声だけを多重に重ねて、完璧にコントロールされて和音を構成する。すべてが悠木碧の声なのに、それでいて寸分狂わぬテンポ、音程なのだから、まったく人の生きた呼吸の感じられないサウンドに仕上がっているのだ。コーラスが完璧に平行移動するあたりは人間を彷彿とさせる何か、でしかない。同じ人間が、同じ呼吸で歌うことは、現実に近くてなお、現実に絶対にありえない光景である。フロイトドッペルゲンガーという不気味なものについて論じたわけだが、非人間的な多重の悠木碧、これをグロテスクと言わずして何と呼ぼう?

 ここまでコンセプトを固めたアニソン・声優の名盤は案外少ない。やや古くは清水愛ゴスロリ声優の代表格だったし、アルバムも評判は悪くなかったが、イメージに比して作り込みは緩かった(中原麻衣とのMVは良かったけど、曲は…)。90年代はもっと弱かった。ここまでの作り込みは悠木碧による強固なコンセプト意識と、作詞家・藤林聖子というコンビ、そもそもフライングドッグという素晴らしいレーベルがあってこそかと思うが、声がリズム隊をこなすというアイデアを体現できたのは、他でもない悠木碧自身の声質の広さ、上手さだろう。昔、百花繚乱サムライガールズという糞アニメのラジオ番組で、寿美奈子と二人で即興のキャラクターで告知を行っていたのだが、実力差がありすぎて寿美奈子はやや悲惨ですらあった。声に独特の震えがあるので、特徴が強すぎると嫌いな人もいようが、やっぱり上手いのだ。

 http://natalie.mu/music/pp/yukiaoi05:悠木碧インタビュー記事

記事で、悠木碧は素晴らしいことを言っている。「あなたの好きな悠木碧もすごく近くに寄って観てみるとちょっとグロいんだぜ」っていう体験をしていただきたかった」。MVに限らず、音楽性でも、さもありなんと言ったところか。グロテスクだからこそ美しい。

 

トコワカノクニ(初回限定盤)(DVD付)

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