山田真裕『二大政党制の崩壊と政権担当能力評価 (<シリーズ>政権交代期における政治意識の全国的時系列的調査研究)』

(自分の記憶のみを頼りに書いているので、間違っていたらごめんなさい)

 

山田真裕先生と言えば、最近、政治学者としてtwitterで名前を見かける方ではある。 

私が山田先生の名前を知ったのは、増山幹高先生との共著『計量政治分析入門』。2004年の著作なので、二人とも選挙分析の論文は書いていたものの、書籍化されているものはほとんど無かった時期だろう。それから13年経過しているが、当時、日本語で、政治学においてきちんと計量分析をする教科書は多くなく、稀少な基本書だったと言える。そして未だに重要な著作であり続けているのは、喜ばしいことなのか、続く書籍の少なさを嘆くべきことなのか…。とは言え無いわけではなく(RやStataを使った教科書)、恐らく当時よりも方法論についての意識も強くなっている。

 

計量政治分析入門

計量政治分析入門

 

さて本書は、 最新の選挙分析をまとめているものとしては、随一のものである。

本屋に行くと、政権交代についての著作は多くある。どうして民主党は政権を取れたのか、どうして自民党は政権を奪回できたのか、経緯をジャーナリスティックに追いかけたものや、政策に焦点を当てて分析したもの(政権交代 - 民主党政権とは何であったのか (中公新書) 民主党政権 失敗の検証 - 日本政治は何を活かすか (中公新書)二つの政権交代: 政策は変わったのか)などあり、戦後日本政治史上の大きな転換とも言えた事件に対する関心は強いことが伺える。一方で、政権交代とは選挙の結果であるのに、その選挙の結果について詳述したものは実はほとんど無い。

止むを得ない話でもある。一人一人を、選挙後に、タイムリーにアンケートを取って、誰がどの政党に投票して、その人はどういう属性で、、、という分析は、選挙という形式を採る民主主義の重要な要素として、「匿名性」の問題がある以上、実は非常に難しい。せいぜいが、テレビでも速報の出る通り、何歳代の人がどの政党に投票したか、が関の山である。

本書は、「スウィング・ヴォーター」という耳馴染みのない概念についての分析である。「スウィング・ヴォーター」というとよくわからないが、つまりは、誰が自民党から民主党、または民主党から自民党に乗り換えたのか、という分析である。強烈に支持政党を持っている人物は、選挙において、計算できる支持者として認識される(例えば支持基盤に強力な宗教団体を持っていたりとか)一方、政権交代においては「スウィング」する層こそが結果を大きく左右していることが多い。こうした層に関して、10年にわたる世論調査プロジェクトという観点から分析を進める。

では、スウィングする層は何を考えてスウィングするのか。民主党に投票しなくなった人たちは、その政権運営能力を否定したというのが山田先生の主張である。当たり前と言えば当たり前である。

一方で、自民党から民主党に乗り換えて政権交代を促したのはどういう属性の人達だったのか、というと、

1.居住年数が短く、2.メディアへの接触には大きな差異はなく、3.政治的会話相手に自民支持者は少なく、4.政策志向的(スウィングしなかった層は土着的)

だと言えるようだ。 我々のイメージにある地方土着的な自民党というイメージとは十分に合致すると言える。が、際立った違いが出たかというとそこまででも無く、「説得可能な投票者」がスウィングしたという点では、二回目の政権交代は十分に有り得た話とも捉えられよう。では二回目の政権交代は何を根拠に「政権担当能力がない」と評されたのかというと、政策的には辺野古への米軍基地移転が特に際立った焦点だったとされる。

その後、安倍政権は対して高い支持率を維持してここまで政権を維持している。しかし選挙での低投票率が示すように、圧倒的な人数の自民党支持者が支えてるというよりも、スウィング・ヴォーターにとって野党は政権担当能力を見出だせないという主張が該当しよう。安倍政権の支持率は標準偏差の大きさが確認できるわけで、つまりは好き嫌いが近年稀に見るくらいにハッキリ分かれている。だからこそ野党が狙うべきは、確固たる自民党支持者ではなく、支持をスウィングしうる層への訴求であるのだが、野党に対して政権担当能力を国民が見出だせない限りはそれも難しい。野党は与党よりも、よりカリスマのある党首が求められるのだが、それが小池氏なのか、枝野氏なのか、はたまた新たな人物なのか、は現状分からない。

 

しかし、国民はどうやってその政権担当能力を認識するのか。確かに本書では政策評価の相関性等の分析はされている。しかし難しいのは、それは純粋に政策評価から導かれた評価なのか、それとも坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、なのか、生(なま)の政治を鑑みるとその区別は難しいと言えば難しい。一度嫌いになってしまったら、もう、全ての振る舞いが下品に見えてしまうのであれば、あるいは閾値を超えた失態をした瞬間にマスメディアが一気に叩きに向かうのであれば、純粋な政策評価がなされているとは思えない。例えば、辺野古の問題に触れなければ民主党政権担当能力は高く評価されたままだったのか、というとどうにも直観的にはそう思えない。となると政権交代能力判断の源泉がはっきりしない限り、山田先生の主張とは異なり、恐らく野党に反省・改善の余地は残されていないのではないのだろうか。

もう一点は、10年間の分析ではあるものの、調査の一貫性があるようで物足りない点である。政策の評価についてもその時々の話題になった志向や政策に対する評価を調査しているわけだが、となるとジャーナリスティックな話題を数字的にフォローしました、以上の話にはなり得ないのでは無かろうか。一般論として、操作化する要素の抽出方法こそが量的研究の抱える問題点と思える。だからこそ出てくる結論は常識的な範囲から抜け出せなくなる。

小倉和夫、康仁徳『朝鮮半島 地政学クライシス 激動を読み解く政治経済シナリオ』

 前回、ウォルツ、セーガン『核兵器の拡散』についてのエントリを書いてから、引き続き我が国の西方が騒がしいままである。

と言っても、ほとんどが我が国を飛び越してやり取りされているので、東西に挟まれて我が国はなすすべなく、手で頭を押さえてしゃがみ込むくらいが関の山なのだが。。。

テレビは平常通りとして、最近ではTwitterでも素人時事政談が繰り広げられ、皆が皆、私は北朝鮮の思惑が分かってますというしたり顔で語るものだから、食傷気味どころか完全に下痢になってしまった。基本は、<平和ボケをしている間にこんなになってしまった>、<どうして日本人はこうまで平和ボケで、本当の戦争を知らなくて>、、、という自称リアリスト達の悲観的な笑顔ばかりが目に付くのだが、残念ながら「本当の戦争」なるものを知っている人は、そもそも世界的に見てほぼいない。どの視点で見ても、何が起きていて、これから何が起こるのか、など本当のところは分からない。況してや当事者であればあるほど、冷静な分析・観察はできない。 

さて本書は、日米中露韓の朝鮮研究者(東アジア研究者)が揃って、かの問題に様々な視点から取り組んでいる。怎、日本人は日本から見た北朝鮮についてしか知らない。だから例えば、北朝鮮と中国が常に歩を同じくをすると勘違いする人すらいるが、当然のことながら現実的ではない。中国にとって、北朝鮮を見捨てるというのも選択肢の一つにあることは十分に合理的であるはずなのだが、中国側の視点が欠けるとそれすら考えられなくなる。中国人研究者である姜龍範の論文は、中国側から見たら地政学的要地であり、しかし制御できない北朝鮮、という両面があることを描き出す。そういった風に、複数の立場から語られるということは、それ以外の立場である人間からは見えないものが見えることがママある。これらを上手く統合できれば、随分と奥行きのある景色になってくる。

あるいは、核のエスカレーションについて米朝相互の動きをきちんと史的に追いかけることも出来ずに、今回の発射にばかり視線をやってしまうのも問題であろう。三代目個人のパーソナリティがそのまま北朝鮮と言う国家の動きな訳がない。勿論、初代、二代目からの経緯があるはずである。どうして、一度は沈静化した核開発を復活させるに至ったのか、を理解することは、彼らのインセンティブ自体を把握するのに有用だろう。

当たり前のことだが、ある国家(北)のインセンティブは別の国家(米)の動きに刺激された結果、ということが大いにある。一方で、別の国家(米)の動きは、勿論ある国家(北)の動きのみに由来するはずもない。それとはまた別の国家の動きであったり、国内、大統領のパーソナリティ、全てが影響する。倉田秀也論文は、核開発の流れについて、主に米朝平和協定と非核化、という観点から組み立て直しており、米朝中の視点を織り交ぜて叙述することで、その当たり前の前提を思い出させてくれる。

プログラムとしては、以上の通り、地域、歴史の両面から北朝鮮を立体的に描こうという試みであり、評価に値する。一方で内容は玉石混交の論文集であり、ベテランであっても、あ~手抜きしてるな、というのが分かるのもちらほらある。何より、注釈のつけ方がまちまちなので、どれがどこから判断された事実であるのかが読者には追いづらくなってるのが残念である。うまく抜き出して読めれば有用なのだが…。もう一歩、物足りない。

 

スコット・セーガン、ケネス・ウォルツ『核兵器の拡散』

最近、何やら我が国の西の方で、核兵器の話題が騒がしい。

ところで国際関係論の世界で核兵器の話題と言ったら、核抑止の話か、核拡散の話の二択に大別できる。しかし実質的には同じ話題かもしれない。

そもそも核についての話題は通常戦力とどう "質的" に異なるのか、というのは簡単ではない。通常戦力にも抑止能力はあるわけで、核抑止とはその延長線上、強化版と言ってもいい。一方で、核兵器と通常戦力は絶対的に区別されて議論されているのも間違いない。さて、核兵器と通常戦力は何が違うのか。

一番の違いはその破壊力である。何を当たり前のことを言ってんだバカ、と馬鹿にされそうだが、待ってほしい。もうちょっと聞いてほしい。

まず通常戦力では原則、攻撃されて自分たちがすぐさま全滅するかもしれない、という懸念を抱くことはほぼない。ツキュディデスのメロス島の時代ではないのだ(メロス島の場合は無条件降伏したうえで男が全員処刑されているのでもっと悲惨であるが…)。現代において、攻撃しあって被害が出ることはあっても、だからといって滅ぶことはそうそうないし、況してやたとえ片方の国が滅んでも両方が滅ぶことはない。

それが核兵器となると、話が違う。何たって、考えなしに射てば核で反撃されて、そして自分たちが滅ぶ。確信できる。それこそが相互確証破壊、破壊がassuredされた状態なのだ。ナイの言うところの、水晶効果とも言われる、滅ぶ未来が簡単に予見されるのだ。これは核兵器の時代に初めて生まれた事態だろう。理屈上は通常戦力でも滅びうる(例えば双方が文字通り死力を尽くし、どっちも負けのような状態に陥る等)のだが、相互に全滅が確実、というのはあまり現実的でない。

核拡散に戻ると、拡散した核は相互に破壊しうる関係の国々を増やす。それは相互に、核によってどんどん抑止された状態とも言える。その意味で核拡散の話題は核抑止の亜種のようなもので、通常戦力が途上国に拡散するときと話の焦点が異なることが分かる。つまり、通常戦力では大国側が滅亡することは想定されず、力が絶対的に抑止されることはない。ちょっと途上国や小国が通常戦力を強化したところで、大国が本気を出せばすぐに潰せる。それはイラクですら、である(統治が出来るかどうかはまた別の論点である)。一方で核兵器では、大国であっても小国でも対等にお互いに滅ぼしうる能力を持つことになる。普通に考えれば恐ろしい話だ。

ケネス・ウォルツはそれに対し、核拡散が進行すればするほど、抑止関係も拡散するのだから、核拡散は世界の安定にとって望ましいと主張した。我が国で核兵器について議論をすれば、「どうやって核の拡散を抑えられるか」とか「核は撲滅すべきだ」という左翼界隈と、「日本も核兵器を持つべきである」「せんごれじーむからのだっきゃく」という右翼界隈の一生噛み合わない議題しかないのだが、さすがにアメリカ人は視点が違う。対してスコット・セーガンは反論していて、「いやいや、偶発的な事故とかあるでしょ」「小国とかに拡がるのは流石にやばくない?」とか様々言う。現実的にはセーガンの方が直観的に真っ当なことを言っているようにしか見えないし、ウォルツはおかしいとしか思えないのだが、しかし現実だけを見れば核をお互いに撃ち合うという事態が発生していない以上、ウォルツに分があるようになってしまう。本書の第5章の事例で出てくるインドとパキスタンでさえ、核を撃ち合わなかったのだ。最悪、世界が滅ぶまではこの議論続けられるんじゃ、とすら思える。しかし、「これまで」は拡散を抑制できていたからそうだったかもしれないが、「これから」もそうであるという保証はない。アメリカはこれまで、北朝鮮のような小国からの核の恐怖を味わったことがないが、自分達が標的になっても同じことを言い続けられるのか、ウォルツに生き返ってもらって話を聞いてみたい。いま、「北朝鮮核兵器保有すること、射程を広げることは、我が国がかの国に核兵器を発射するリスクを減じることに繋がる以上、歓迎すべき事態だ」と胸を張って言えるのだろうか?

(ちなみに同盟理論で著名なウォルトは、これまでもソ連による核の恐怖は味わってきたし、大して憂慮すべきことではない、とtwitterで言っていた。北朝鮮という国が今後も合理的に振る舞えるのであれば、然りだと思う。)

追加で、本書で気になる論点は、では戦略兵器である核兵器と通常戦力の間隙を埋めるような、戦術核についての掘り下げはない(と思う)。相互に全滅しない、通常戦力によりも強力だが局所的な破壊しかもたらさない核兵器、については、第二撃能力を持たない以上、制限すべきなのだろうか? それとも核である以上、抑止の観点から拡散すべきなのだろうか? さておきこの観点から見ると、ウォルツの意見は核兵器が通常戦力と致命的に隔絶されているという視点が非常に肝要なのだ、という事実に気付かされる。

 

うろ覚えのままで上記を書いたので、あとで修正するかも。

 

核兵器の拡散: 終わりなき論争

核兵器の拡散: 終わりなき論争

 

 

ハインライン『夏への扉』

夏が近づいてきたので、夏への扉を開いたが、来年以降は夏こなくてもいいかな、と思った。何せ暑いし。夏を満喫などするはずもないのだから、春でいい。春は良かった。春を満喫することとは花見というわけではなくて、すでに陽気が春だったと思うことで足りる。秋は陽気とか言っている間もなく冬になるので、諦めてすぐに春を待つしかない。春を待つこともまた良い。そのうえ春には夏を待つという醍醐味がある。つまり夏が来ればより嬉しくなる。あれ、何の話してる???

 

言ってることがおかしくなってしまったので、過去に遡って本文を修正しとこう。

夏が近づいてきたので、夏への扉を開いたが、もう読まなくていいかな、と思った。厚くないし。中身も軽いし。満喫などするはずもなかった。

本書を満喫することとは猫見というわけではなくて、発明家が、女に騙され、冷凍睡眠で未来に送られたが、彼はすでに幼い姪に愛されており、タイムマシンで過去へ戻って、色々頑張って、好きだった姪に大きくなったら冷凍睡眠に入ってもらうよう約束して結婚するのだ。ロリコン小説ということで事足りる。猫が活躍したとか行ってる間もなく冬眠に入るので、諦めて幼い姪を待つしかない。大きくなる姪を待つという醍醐味がある。つまり光源氏計画である。

なろう小説におけるざまぁ物でしかないと思うのだが、どうして未だにこれほど名作と名高いのか、不思議でならない。SFマガジンなどで人気投票をするとトップ10くらいに入ってくるけど、海外雑誌であるローカスとかでやると同じハインラインでも『月は無慈悲な女王』などは上位にくる一方で、本書は下の方にポツンとある。日本がズレてるのだろうか?(各国別人気比較とかないかな…)

 

夏への扉 (ハヤカワ文庫SF)

夏への扉 (ハヤカワ文庫SF)

 

 

田渕直也『入門実践金融 証券化のすべて』

特別に語るべくもないというのが正直なところで、それはこういった入門書においては十分な誉め言葉として捉えてもらいたいのだが、それよりも田渕直也というひとは、デリバティブ関連の実務家向け入門書を書いている印象が強かったものだから、証券化についても書くというのは意外だと思う一方、マーケット業務を担当していて証券化商品を運用商品として売るか買うかするというのは当然の選択肢の一つとして上がってこようものと思われるし、その一環でデリバも証券化も両方とも分かるというのは違和感はないのだが、少なくとも領域が違うことは確かであり、両方とも入門書の域を出ないのでまぁ書けると言えば書けるか、と納得はするし、包括的に体系立てて説明してくれるのは新鮮な驚きもあってありがたいのだけれど、もう少し技術的、専門的な話はどこまで書けるのだろうか、などと感じて経歴を見ると長銀三菱UFJ投信でマーケット商品の開発をずっとやってきたとあるので、金融工学的から鑑みたバリューの計算方法とか、より現代的なデリバセールスマンの実態とか、実際の運用サイドの目線の話は苦手そうだなぁと思わなくもないのであるが、とは言え、そういった部分は往々にして文章には出てこないもので、密教的に、そこに属する人間にのみ継承されていくため、仕方ないと言えば仕方ないのだ。

(特に意味もなく一息で書いてみた)

 

入門実践金融 証券化のすべて

入門実践金融 証券化のすべて

 

 

女性声優アーティスト ディスクガイド 、 ドリカンからこむちゃへ アニソン黄金伝説!

声優の歌声にクオリティを問われるようになったのはいつの頃からか。アニソンではない、声優の歌声である。アニソンの長い歴史の中においてどこを境目にするか、は悩ましい問題だが、90年代半ばくらいを一つの時代の変節点とすることは多いのではないか。声優ブームとしては第三次声優ブーム。これは、深夜アニメというものが出てきたタイミング と符合する。あるいは先駆けとしてのOVA文化まで遡っても良い。いずれにせよ、大人向けのアニメが作られ始めたことと関係しそうだ。(とはいえ、スラップスティックスもNG5もあったのだが)

本書は女性声優アーティストディスクガイドとあるが、声優を前面に打ち出すビジネスが始まり、声優にヴィジュアルが問われ始め、アイドルとしての役割が強まった90年代半ば以降が対象である。時代を通底してアーティストとしての第一線を行く坂本真綾の特集(坂本真綾名義で発売した全CDのディスクガイドとなっている)、椎名へきるのインタビューが掲載された後、時代ごとの各CDに対して1頁程度を割いて女性声優ディスクを紹介している。坂本真綾を冒頭に持ってくるあたり、明らかに、良質なポップスを提供するアーティストとして認識する編集方針になっていることが分かる。

世代的な好みは分かれようが、今の時代の一般的な認知度の高い水樹奈々とかを載せておけば安パイ、といった形になっていないことは非常にありがたい。最近のCDまで紹介があるが(+竹達彩奈のインタビュー付。ちなみに彼女のアルバムはあの筒美京平が楽曲提供している)、大量の声優が当然のようにCDを発売する昨今、売上ではなく、クオリティの高いCDを紹介してることも◎。音楽マニアにこそ向けたディスクガイドである。

 

女性声優アーティスト ディスクガイド

女性声優アーティスト ディスクガイド

 

で、なんで↓を急に紹介するかというと、逆にドリカン・こむちゃというのは、その時代のオタクに最も受け入れられた音楽を反映する音楽番組であり、掲載される楽曲の乖離ゆえである。投票を反映するランキング番組というものは、声の大きいオタクを掴まえているかどうか、が順位を上下させるという点で、純粋な人気ランキングとはズレてくる。しかし時代というか、ムーブメントを捉えるという点で言えば、実は向いているのではないか、などと思っていたりもする。たとえばtwo mixとかね。

で、名盤を紹介する↑とは違う、より時代の雰囲気を味わるのならば↓を補完的に読むと、アニソンの歴史の表と裏の両方が見えるという点で、より複層的な捉え方が出来そうに思ってます。

 

ドリカンからこむちゃへ アニソン黄金伝説!

ドリカンからこむちゃへ アニソン黄金伝説!

 

 

太田智之『債券運用と投資戦略』

タイトルの通りで、テーマのひとつは債券運用に際して、そのバリューを、利回りをどう計算しますか、という問題について。価格は市場で売買されている限りは自動で算出されるけど、債券のクーポンと、現在の市場金利を鑑みたとき、その価格は割高なのか、割安なのか、また適正価格はどこにあるのか、はどう考えればいいのか。これは常に問われてくるし、債券の問題はほとんどそれに集約されるとも言える。

もうひとつは、それらをまとめたポートフォリオはどう認識すればいいんだろうか、という問題。

話題を幅広に取り扱って、ひとつひとつの説明が薄い、というタイプの本だが、入門書ではない。金融業界は、怪しげなテクニカル分析本を除くとあまり出版点数が多くないため、5年前以上前に出た本も平気で書店に並んでいるが、一方で毎年のように規制が変わるので、きちんとアップデートされてる本は入手せざるを得ない。

しかしどうしてか、数式の導出方法や、その計算の理屈がきちんと書いてある本は、洋書か翻訳ものしかない。

 

債券運用と投資戦略 【第4版】

債券運用と投資戦略 【第4版】