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キャロル・モンパーカー『作曲家たちの風景 楽譜と演奏技法を紐解く』

クラシック音楽 ショパン ☆☆☆

クラシック音楽をめぐる書籍は決して少なくない。大型書店に行けば楽譜コーナーも含めると広いエリアを占めていることが見て取れる。手に取ってみると、評論本も多く並んでいることが分かり、そのいずれもが、著者による己の独自の感性を活かした雑筆となっているため、さながら読書感想文のようである。全く優秀な小学校時代を過ごしたことだろう。

世の優秀なクラシックリスナーは、残念ながら楽譜が読めないことが多い。もしくは育ちが良いので少しは弾いた経験もあろうが、外国語も達者ながらに楽譜に書いてある文字に目を通したことは無さそうだ。ミケランジェリが何年にどういった演奏をしたといった、演奏家についてのトリヴィアルな知識はあっても、ミケランジェリがどうしてそういう演奏になったのか、というのは楽譜を見ないため分からない(といってもミケランジェリが何を弾いたか、なんてのは弾いた曲の選択肢の少ない人なので、当てずっぽうでも案外正答率は高そう…)。 そもそも「完成度の高い演奏」(同じくミケランジェリに対する形容)とは、いったい何のことを指すのか、未だに不明瞭である(ミスタッチの数のことではなさそうだ)。

別に皆が皆に対して不満という訳ではない。演奏家兼評論家をやっている人もいるし(青柳いづみこが代表格だろうか)、演奏とは別次元の圧倒的独自路線で、目から存在しない鱗までボロボロ剥がしてくれるような人もいる(片山杜秀は途轍もないと思う。一応バイオリンを幼少期にやっていたらしいが…)。ただ、「許」しがたい人もいる、というだけの話だ。(さて、誰のことだろう?)

それと比べて海外の翻訳ものは全般的にクオリティが高いなぁと思う。単純なセレクションバイアスかもしれないが、それだけじゃなく、これも含めて、評論家が実際に演奏をしているという例も多く見られるのが有難い。大部のバッハのフーガの演奏法本はスコダが著作だったりして、演奏家の執筆レベルもまた高い。書き手と弾き手がきちんと相乗効果をもたらしあっている良い環境を感じられる。本書の著者キャロル・モンパーカーは、評論家兼演奏家らしく、実際に演奏したときに、様々な著名ピアニストと相談をしながら考えを固めてきたといった記述も随所に見られる(Youtubeで見た限り、技術自体はそこまで…だが)。またベートーヴェンの生原稿も見ているということで、楽譜を読める強みも持ち合わせる。そうすることで、楽曲の内面に踏み込んだ記述をすることができるのだろう。然して本書では一章ずつ、時代ごとの代表的な作曲家について、楽譜と演奏技法の観点からどう演奏すべきか、という問題が語られる。

個人的に助かるのは、補録としてショパン舟歌」について、7人のピアニストからインタビューをとり、楽譜を用いて特に丁寧に分析されている点。単に自分が弾く際の一助になるというだけで殆どの人には無用だろうが、ピアニストがどう考えてこの一音を解釈しているのか、というのはあまり聞く機会がなく、当たり前だが、人によって認識の多様性があることに気付かされる。自分の演奏を見直せる数少ないチャンスでもある。

 

作曲家たちの風景 ――楽譜と演奏技法を紐解く―― 【CD付】

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オノ・ナツメ『ACCA』

 ついにACCAが終わってしまった。オノ・ナツメ作品に通底する、男キャラのエロス。よく出ていたと思う。あまり武士のほうはその価値を分かってあげられないが(さらい屋とか、、、)、西洋の、鼻の高い男性キャラは何とも言えないのじゃーと涎を垂らしていた。またロッタも可愛い。で、これがマッドハウスで、夏目真悟監督でアニメ化されるということで、随分と期待させられたのだけど、感想としてはアニメについては正直エロスが足りなかった…。顔についている、極端に大きくて横に広がった目が、人間の目になってしまっていたのだ。その意味でアニメで描かれていたのは、人間ジーン・オータスだった。リストランテ・パラディーゾとかもそうなんだけど、生活が描かれていてなお、生活感を微塵も感じさせない非人間的な振る舞いこそが魅力だったんだなーと思わせてくれる。我らの愛するガイジンは、あるいは武士は、人間であってはいけなかったのだ。顔つきも見ると爬虫類に思えてくる。

治安維持を司るACCA局員、ジーン・オータスは、知らぬ間にクーデター計画に巻き込まれていき、どんどん中心に据えられていくのだが、本人は至って無関心で受動的。だから彼が何を考えているか分からないし、そういう点が人間的ではない。タバコを屋上や広場で喫むジーンは、遠くをぼんやりと見ており、目の焦点が合っていない。一方で彼はよくタバコを喫む場面をよく目撃されており、彼は常に「見られる」対象である。彼を中心にシステムが作動しており、そのなかでブラックボックスのジーンは、様々な刺激を受け流す。ロボットだろうか。

タバコはライトモティーフのように象徴的に描かれるが、何かの記号か、と言われると、やや悩ましい。「もらいタバコのジーン」だけあって贈与(マルセル・モース)と返礼のシステムが存在していて、そこに社会が成立する。一方で、視察した先で受け取ったタバコを吸っておらず、贈与のシステムから考えて、ラストのクーデターへの対処が既に予感させられる。即ち、ラストのジーンを見ると、非人間的なジーンというのは、いやいや能動的ではないか、と思えるかもしれない。が、ネタバレにもなるから踏み込まないが、もっと現状打破的な着地点もあったはずで、やっぱりまだ受動的だと思うのだ。トップが阿呆なことに変わりはないではないか。とは言え、多くの漫画で秩序を変革するシーンは少ないので、時代か、メディアの要請なのかもしれない。しかし、タバコを「吸う」という行為に何の意味があるのか、は、、、何だろうね?

 

 

 

現代小説クロニクル 2000~2004

日本文学 ☆☆☆ NTR 文学

良いシリーズだと思う。講談社文芸文庫は短篇のアンソロジーを定期的に出していて、この現代小説クロニクルは、そのなかの一環として5年区切りで名作短篇が集められている。

5年というスパンはかなり短い。純文学は時代を映し出すことも多いが、5年では時代の区切りとしては短い。とは言え、時代の最先端だったであろう綿矢りさ「インストール」は今の感覚からすればかなり古い。とは言え、5年もいくつか積み重ねれば大きくなる。当たり前だバカ。今だったらこういうのはツイッターかLINEかでやるんだろうけど、若さに価値があるのに、女子高生が大人のフリをしてしまうというのは当時の人間は理解できたのだろうか? 同級生を斜に構えて見て分析してる気分になって、あれとは違うと何かになりたがる高校生、という人物像は、もはや、ありがちすぎて、フィクション性が極まっている。ただし、フィクション的な人間になりたがる若者、というのは、まぁいるか。彼らは○○"ぶる"のだ。しかしチャHと呼べばいいのか、こういうサイバーセックスをするのに対して、随分と物語構造上の理由をつけている。必要だろうか? その意味では金原ひとみ蛇にピアス」の方が、セックスに対するフラットな感覚・描写が現実的(なのに、山田詠美の言う通り「ラストが甘い」。ドラマチックで通俗的なのだ)にも思うが、一方で優等生が援交をするのには理由が必要なのかもしれない。仕方ないのかもしれない。ところでこの二作の、身体性と、サイバーという非対称さは、既に語られていることだろうか?それともこれは非現実的という意味での類似点なのだろうか?

完璧なフィクションにしてしまうなら、堀江敏幸「砂売りが通る」が白眉だ。たったワンシーンを切り出すだけで圧倒的な背景を構築する。「それは、小説のつもりで書いたものではありません。文芸誌「新潮」(新潮社)で三島賞受賞作家特集があったとき、何でもいいですと依頼されて書いた原稿が、編集部の判断で創作欄に載せられた。「エッセイ」の枠でも全く問題無かったんです。文字にしたものには、すべて創作だと考えていますから。ともあれ、それで、僕は「散文」の書き手から「小説的な散文の書き手」として、やや小説寄りに分類された」ものらしい。ここにあるのは物語構造ではない。場面を、主人公が昔と記憶の中で照らし合わせる。が、「時間が、そこでいきなりよじれた」。短篇ならではの凄さだった。

感想はそのくらいです。

 

 

小沢健二『Life』

J-Pop ☆☆☆☆☆ 90年代

小沢健二が復活したとのこと。印象として、あの時代に青春を迎えていたひとの象徴の一つであり、時代の寵児であり、逆を返せば、それ以外にとっては無関係なひと。私にとっては無関係のひとだった。でも、鷲崎健のヨルナイト×ヨルナイトで、オザケンという名前がよく話題に上ってきていて、ある回で岡村靖幸の『家庭教師』と比べてどっちが名盤かというボクシング対決(意味が分からない。私も意味が分からない)を組んでいて、邦楽にとってよっぽどの名盤という扱いになっていることを知り、手に取ることとした。  素晴らしかった。

「多幸感」。この詞がこの名盤を評するときのお題目である。では、念仏のように唱えるのだ。タコウカン、タコウカン、タコウカン…。ああ、幸せな気分になってきた。目の前に小沢健二があっぱいに広がる。が、顔が良くないので掻き消そう。立川談志が言っていた。金払いがいいと言ってるやつがケチな場面を見せると悪口を言われるが、はなっからケチですと言っておけばケチなことをしても、あの人はケチだから、で許される。フリッパーズギターが音楽をパクっていようとも、堂々と居直っている分には誰も責めない。パクり?違う、ハッピーなんだ。歌が下手?違う、ハッピーなんだよ。ハッピーだ。

渋谷系という言葉が、あまり今の渋谷を見てもイメージがつかない。ゴミゴミしすぎている。かつては違ったのだろうか。今の感覚的には表参道とかそういう感じがする(近いけど)。まぁ、単に渋谷に海外CDショップがあって、音楽の発信源だったから、渋谷系。ということで、やっぱり街はずっとゴミゴミし続けている。音は無駄がなく、クリーンだ。音幅が狭いからこそ、声質に熱量がなく、音域は不安定。だからこそ、王子。京浜東北線だ。

ピエール瀧が、倖田來未がしていたラブリーのカバーを、渋谷系でなく新宿系だ、と言っていた。どちらも同じだろう。ただ聞いてみると、違いがよく分かる。倖田來未のは、アレンジが現代的な感覚で正解だ。R&Bやらソウルやらをポップにするならこれでいい。小沢健二は音のバランスがおかしい。前に出過ぎだ、ベースもうるさい。よくよく聞くと、いろんな音数が鳴っているのに、演奏がシンプルに聞こえるのはこのせいだ。いいか、これは褒めてるんだ。正解なんてどうだっていいんだ。シンプルに、クリーンに、小沢健二のハッピーに乗っかるのだ。ついに世の中はAメジャーとEメジャーに支配されたのだ。

 

LIFE

LIFE

 

 

遠藤周作『沈黙』

☆☆☆☆☆ 文学 日本文学

遠藤周作という作家は、文章の巧みな人だなぁというのが第一の感想だった。皆さんご存知の通り、江戸時代に入り、キリスト教は迫害された。宣教師ロドリゴ一行は、信仰に篤い宣教師フェレイラが日本で棄教したと聞き、その真偽を求めて日本は長崎に向かう。

そして宣教師達が苦しむたび、水が付きまとう。日本に辿り着くまでの船旅との苦闘に始まり、梅雨のなかで繰り広げられる日本人による陰湿なまでの棄教の強制、水磔のみならず、簀で巻かれて海に沈められる日本人のキリシタンと、自分から海に沈んでいく宣教師。そしてまるで沼のようだと喩えられる日本のキリスト教における土壌。こうした日本に対する逃れられぬ水のイメージとともに、ロドリゴは結局、日本に引き込まれ、棄教している。こうした一貫したイメージは、作品全体の鬱蒼とした雰囲気をうまく醸成するのに役立っている。そして沈黙する神は、日本に来たのちには、顔の表情すら変わってしまうのである。フェレイラいわく、日本でキリスト教を30年布教して、広まったものはキリスト教的な何かでしかなかった。

そうした西洋と日本のキリスト教観の不整合は、遠藤周作にとっても強い問題意識としてあったようだ。これを逆転させて考えると、どころか、多くの西洋文学においてキリスト教に基づくコスモロジーはあるはずだが、日本人は読み取れていないとも言える。とにかく日本人には難しい概念が多く、例えば愛、というのは我々のイメージとは合致していないだろう。本作でも愛が中心的に語られていたように思う。イエスとユダの置き換えである、ロドリゴとキチジローの関係性では、ずっとロドリゴは裏切り者のキチジローを愛せるか、が主題と言えた。最後の最後で、ロドリゴが表面的に棄教するに至った踏絵でも、ポイントは信徒に対する愛だった。

常に西洋において愛は問題になる。話は逸れるが、ハンナ・アレント学位論文は『アウグスティヌスにおける愛の概念』だった。愛と言えば普通は、隣人愛というキリスト教的な教義が挙げられる(caritas)が、ギリシャ的な愛(eros)というものもあり、その間で揺れ動く愛がアウグスティヌスにはあった。では、本作の踏絵における愛とは、単なる隣人愛だったのだろうか。隣人愛は神への愛による一体化から繋がる発想だろう。しかし、踏絵のシーンにおける信徒は、キリスト教的な何かを信仰する誰かだった。日本の信徒が苦しめられるからロドリゴが棄教する(=「転ぶ」)とは、パウロ的な愛に基づく行為と言えるのだろうか。信仰を持たない私が深く踏み込める領域ではないので、キリスト教解釈論議をするつもりはないが、少なくとも遠藤周作にとっては、日本のキリスト教を「母なるもの」として捉えていたらしい。踏絵をするとき、神が沈黙を破ってロドリゴに、踏むことに対する赦しを与えるわけだが、ここはとにかく物議を醸したらしい。遠藤周作自身も布教意識をもって執筆したからそれもやむを得ないが、しかし、ここにおけるやや歪んだキリスト教像はそうした意識に基づくようだ。池田静香氏は、吉本隆明がこれはキリスト教でなくても<信>のパターンであれば仏教なんでもよい、通俗的な作品だと喝破したとするが、まさしく。しかし、布教パンフレットと読まず、キリスト教特有の作品とも読まず、近代文学として読む分には全く問題はない。全体としてジメジメとした文章が、<信>によるジレンマを沸き立たせ、そして最後の赦しまで至るという流れは、非常に完成度が高いものであり、キリスト教解釈の適否は問題にならないだろう。

 

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

 

 

小森晶『トレーダーは知っている』

☆☆☆ 金融

タイトルが胡散臭くて、副題が「オプション取引で損をしない「法則」」となっている。きんざいのテキストなんだから当然なのだが、残念ながら本書を読んだところでそんな法則は載っていない。相場の見方とか、分析方法とかそんなものには触れるつもりも毛頭なく、オプション取引の入門について説明した後、本書を買った人間だけが見れるエクセルファイルを使ってオプショントレーディングのシミュレーションをしたり、ブラックショールズのモデルに基づいてボラティリティ金利を弄ってみたりする。

一方で、モデルの作り自体にはほとんど踏み込まない。変数が示されるだけであるので、その意味で本書は入門向けな気がしないでもない。しかしながら、金利オプションはレートが低いのでログノーマルではない、フォワードレートを掛けたノーマルボラティリティを使うという説明から、ぬるっと本書はSabrモデルについて述べるのだ。ここまでの説明のうちに、正規分布という言葉はどこにも出てこない。理論的な話には踏み込まずに、アップトゥデイトな議論をする、というある種無謀とも思えるアプローチをしており、大胆だなぁという感想を抱く。とは言え、細かな説明を諸々すっ飛ばしながら、最終型は、

(G-F)=α×E1×√D×F^β

η=ν×α×E2×√D

で、E1とE2の相関はρね、と言うのであるので、すごーく簡単というわけではない。ただそれぞれの変数を導くための数式は省かれている。そうしてボラティリティがストライクごとに異なるときの価格変化のイメージをつけやすくするのだ。

本当に入門的な部分のみ触れたい場合は、オプション取引の入門の部分だけでもタメにはなる。つまり、プット、コールから始まり、ブラックショールズの変数やグリークス、デルタニュートラル、スマイル等についての標準的な教科書的説明がなされている。調べてみると、案外オプションについての簡単な概要本は、何一つ数式の出てこないド初心者向けしかないので、このくらいでも有り難い。但し「はじめに」にて、オプションマーケットの暗中模索状態から色々シミュレートして全体像が見えてきたとある通り、実際に手を動かして見える箇所もあるだろうし、そこだけに留まるのも勿体無い気もする。

一つ、あえて言うなら、本書のターゲットはいったいどの層なのだろうか?(さすがに個人投資家ではないだろうし、大多数な銀行員でも無さそうだ)

 

トレーダーは知っている-オプション取引で損をしない「法則」-

トレーダーは知っている-オプション取引で損をしない「法則」-

 

 

松本佐保『熱狂する「神の国」アメリカ 大統領とキリスト教』

☆☆☆☆ アメリカ外交 政治思想

 アメリカ政治を理解するのに常に付きまとってくるのが宗教問題である。日本ではまだ馴染みの薄いロビー活動(当然日本にも利益集団はいるが…)において大きな役割を果たすキリスト教という姿を見ると、アメリカが先進国の中でも最も先進国的ではない国家だと感じさせる。これまで欧州も、日本も、政治は世俗化を図っていってきていたなかで、キリスト教がどんどん政治に参画するアメリカはやはり異常である。あるいは今の世界の風潮を鑑みると、ややもするとこれが最も先進国的になっていくのかもしれない。ポピュリズムが蔓延する中で(ポピュリズムの定義はさておき)、停滞する経済により利便を享受できなくなった市民は、"アンチ"として何かを攻撃するようになったわけで、欧州で見られる移民排斥はアンチイスラム的な動きとしては宗教的と言えなくもない。しかし例えば国民戦線の背後にカトリックがいようが、政教分離原則は維持されており、宗教を政治に活用するような動きはまだまだ出てきそうもない。

ところで本書は松本佐保先生による、アメリカの政治と宗教の関わりについてまとめられた新書である。先進国に稀な宗教的国家であるアメリカについて、幅広にまとめあげられた著作となっており、あまり手軽に手に入れられない分野ということもあり非常に参考になった。松本先生は、イギリスにおける対バチカン政治の研究者であるらしい。これまでの研究成果を見るに、どちらかと言えばイギリス外交の専門家であり、バチカンに研究の土地勘があるようだが、これは、やや専門から外れていても書かせる人がいないこの領域の手薄さなのか、あるいはそれでも書かせたいという魅力によるものなのか。(あまりこの領域は詳しくないので、判別つかない)

章立ては以下。

1 アメリカの宗教地図

2 カトリックの苦悩

3 米国カトリックの分裂

4 ピューリタンから福音派

5 1980年、レーガン選挙委員会

6 キリスト教シオニスト

7 ブッシュ大統領キリスト教右派、その後

8 福音派メガチャーチ体験

 

1章でアメリカのキリスト教の系図や地域性を説明した後、英国から米国へ流れてきたカトリックおよびプロテスタントがどのように政治へと関与していくようになるかをざっくりまとめる。なかでも重視するのがレーガンを選出した1980年の大統領選で、それまで下地を作ってきたキリスト教票がついに、テレビ伝道師達とともに花開いた様子が様々なエピソードを含めて説明される。ゴールドウォーター敗北後の支持者達が、カーター政権に幻滅した層をいかに取り込みレーガン当選へと結託したのか、について一次史料からの説明もあるのが良い。そしてその後、キリスト教シオニストと呼ばれる親ユダヤ層がイギリスからアメリカに流れて影響を及ぼしていること(ここが著者の専門のようだ)、ブッシュ政権で栄華を誇ったキリスト教右派とその減退、最後に福音派メガチャーチへの往訪体験が描かれる。ややテーマ性が見えづらく散漫ではあるが、出来るだけ多くの要素が拾われており、入門には良いと思う。

一方で気になった点は、新書なので諦めなければならないところかもしれないが、言葉の定義が明確ではない。例えばアムスタッツ(『エヴァンジェリカルズ』)にもある通り、そもそも福音派はある一体となった活動ではないことから包摂する意味が広く、仕方ない部分ではあるものの、本書はGood newsです、でざっくりまとめてしまっていて、で結局なんだっけ、と言うと曖昧に過ぎた。

またキリスト教右派・左派、様々いるなかで政治へ関与した過程は分かったが、ではどうしてアメリカが特殊な有り様になったのか、どうしてそれぞれの宗派が強力な右派の機能するような考え方に至ったのかといった説明は限られる。他国とアメリカの在り方がある程度は比較されないと、アメリカの宗教と政治についての説明としては物足りない。それから各大統領の信仰と政策の関連が述べられるが、実際どこまでが信仰に基づく政策で、どこまでがロビイストであるキリスト教徒に迎合した政策だったのか、あるいは無関係だったのかというのはまだ検討の余地があろう。

以上、気になった点を一言でまとめると、神学的なアプローチが少なく、信仰そのものがアメリカ政治にどう影響したのか、が見えづらかった。テーマ的にも紙幅的にも仕方ないが、こうしたテーマを政治史的にまとめるだけだと、多くの人々を魅了し、作用させた宗教は理解しきれない。単なる一つの利益集団の影響による歴史と、人々に倫理や価値観を提供する神学を同一視してしまうと、そこに生きていた人間を理解するには片手落ちになってしまう。その意味ではメガチャーチというエンターテイメントについて紹介されていたのはサポートになったと思う。

ところで帯にある、「ローマ教皇はトランプを止められる」んでしょうか?解答が載ってないことを考えると、煽りすぎでは。

 

熱狂する「神の国」アメリカ 大統領とキリスト教 (文春新書)