ジョン・ケイ『金融に未来はあるかーーーウォール街、シティが認めたくなかった意外な真実』

原題はOther People's Money、他人の金(副題 金融の実際のビジネス)。邦題は無闇に扇情的でかつダサいと思うのだが、こういうタイトルをつけないと売れないという出版社の判断なのだろう。まるで洋楽のアルバムのダサい邦題みたいだ。

さて本書は、FTなどのコラムニストにして、色々なビジネススクールの教授でもあり、英国政府やスコットランドのアドバイザーも勤めた経歴の持ち主であるジョン・ケイ氏によって2015年に執筆された。

A Financial Times Book of the Year, 2015
An Economist Best Book of the Year, 2015
A Bloomberg Best Book of the Year, 2015

に選ばれており、高く評価されていることがよく分かる。日本では、ジョン・ケイ氏が2012年に英国政府に提出した、ケイ・レビューと呼ばれる英国株式市場の調査レポートについて、金融庁が参考にしているということから俄に注目が集まった。昨今、皇帝・森金融庁長官による金融(庁)改革が進められているが、金融(庁)関係者はこういった参考文献を読みながら、お上が何を考えているかを先読みした忖度が始まっている。

そんな本書であるが内容は概ね以下にまとめられると思う。

 

・金融機関は表面的には儲かってるように見えるが、最近のマーケット取引に基づく収益は無為だ。昔の銀行は、街の名士として金貸しだけをやっていて良かった。今では、マーケット商品を作り出して販売するくせに、経済のファンダメンタルズを無視して、他人の予想はこのあたりに収斂するだろう、ということの分析ばかり行っている。結果、 実際のリスクはどのくらいで、誰が負っているか分からなくなっている。結局最後には誰かが損する仕組みになっており、金融危機時には結局リスクを抱えていた金融機関を税金で救っただけで、そもそも金融機関は儲かってすらいないのではないか。

・だいたい金融機関は無駄に複雑化し、例えば訳の分からない不動産に係る証券化商品を作っても、実際の不動産自体については認識が甘いし、本来果たすべき中小企業に対する融資の目利きだって出来ない。金貸しという本懐から離れて、無駄にROEばかり気にするあまりにデリバに現を抜かしてしまった結果、自分でリスクをとらず、他人に複雑な商品を売り付けて満足するようになった。個人の決済機能はレベルアップさせないくせに。これでは個人には何も還元されないではないか。個人向けについては金融機関は、ブラックロックよろしく、信頼された資産運用会社になるべきだ。。

 ・金融機関はどうなるべきか。個人部門と投資銀行は切り離し、どんどん細分化、隔離と専門化をすべきであり、個人向けはシンプルに、金融機関同士の取引は削減し、やらかした奴には直接の取引先だけでなく、間接的な仲介業者も、そしてやらかした本人にも罪を負わせるべきだ。課徴金はつまりは他人から捲り上げた他人の金でしかない。金融機関は古きよき時代に戻るべきだ。

 

しかし上の内容を抜群の筆致で、様々な喩え、皮肉を駆使しながら描いていくあたりは、さすがFTのコラムニストである。内容はやや専門的なものも含まれているが、いくつかの見事な比喩はその理解をざっくりと深めるのに役立つ。

ある程度マーケットが分かっている人間にとっては、よっぽど筋の悪い人でなければ自明に思える部分も多いのではなかろうか。第一部はいわゆるケインズの「美人投票」についてだ。これはマーケットの本質であり、概ね理解できる(どうしようもない問題である一方で、だからと言ってファンダメンタルズを全く無視しているわけでもない)。第二部は複雑化した商品と、リスクを他人に委ね、個人への責任を放棄した金融機関への批判だ。ここも、セルサイドが収益をぼったくってアホなバイサイドに売り付ける構図や、儲からない決済機能(SWIFTとか)のローテクぶりなど、分かる話が多いだろう。それをここまで包括的に描いているのだから見事である

テクニカルには細々と言いたいことがあるが、大きく一つだけ言わせてもらうと、金融危機の描写についてこれだけ説明しているのに、金融危機以降の対応についての記載がほとんど無いことだ。認識はしているはずだが、そのうえでバーゼル3は不足、の一言で片付け、デリバに対する中央清算機関の話題も見当たらない。投資商品もかつてよりまともになった。せっかくの日進月歩の改革を忘れてゼロベースで話すことは、やや不適切にも感じる。

翻って、本書を日本の反省材料とすべきであろうか。我々は森長官ほどピュアではないので、事はそう簡単でないと考えるべきだろう。メガバンク、地銀は英国の状況と等しいのか、同じ解決策で同じ結果を産み出せるのか、そもそもこの提言は叶うべきものであるのか、そのあたりの不毛な作業は優れた金融庁職員に頑張ってもらおう。

 

金融に未来はあるか―――ウォール街、シティが認めたくなかった意外な真実
 

 

学園祭学園『嘘』

この曲が初めて世に出たのは、声優の浅沼晋太郎さんが参加する劇団bpmの舞台「TRINITY」の主題歌としてだった。その後、「アコギな夜」という学園祭学園がトリを務めるイベントで生演奏が披露された後、10月のヨルナイトフェスにて手売りでの販売が始まった。GRAPEVINE好きな感じがよく伝わる青木佑磨ソロ『逆様の顛末』から、学園祭学園『ユープケッチャ』と徐々に音源はポップに洗練されていき、そして本作「嘘」は、鷲崎健楽曲にも携わる杉浦"ラフィン"誠一郎をアレンジに迎え、聞きやすさが一段と改善されている。ライブでの音源を聞いていて、狭いライブハウスでの演奏ということも影響してだと思うが、もっと音数の多い印象だったので、CDを一聴して感じたのは、思ったより音が薄いアレンジになったな、という感覚だった。一方で鷲崎さんはヨルナイトのラジオで、思ったよりも早かった、という感想を述べており、もちろん自分の頭で描いていたもっと激しい印象が正解という訳ではない。編成が、ベース、ドラム(TRINITYバージョンでは生ドラムですらない)、パーカッション、アコギ、エレキギター(サポートメンバー)の五人だが、ライブと比べるとアコギを減らして、"ラフィン"さんのピアノが増えているだけで、もっと音を重ねられた中で恐らく意図的にシンプルな音作りに徹している。個人的にはもうちょっとガチャガチャやってくれた方が好みだったけど。

しかし本作の最大の名曲は4. gsgarchives_02だった。アコギな夜2016年1月(と言っていたと思う)の音源で、延々と酷い下ネタを交えた「複合謎掛け」を喋り続けている。とてもライブ中とは思えない長尺でのトーク(いつものこと)で、これが本当は間のもっと酷い部分を省略しているというのだから、その圧倒的なライブパフォーマンスぶりが察せられる。超ラジにゲスト出演した頃(逆様の顛末の頃)、或いはPOARO大喜利をやっていたとき、青木佑磨さんという人物が、こんなに面白いとは到底思わなかった。学園祭学園か、ヨルナイトという環境以外でも輝くのか、注目している。

嘘

 

 

坂上秋成『TYPE-MOONの軌跡』

みんな大好き、TYPE-MOONのこれまでの歴史をまとめた本。とても簡単にまとめられており、Wiki +α程度の情報量が収められている。情緒不安定な奈須きのこが、武内崇ほか、様々な周りの大人にプッシュされてスターダムまで駆け上がっていく様子が描かれる一方、空の境界月姫Fate/Stay nightについての、坂上秋成というライターによる、分析というには弱く、あらすじというには不要な、誰でも辿り着ける程度の批評が入っており、焦点が定まらない。ネタバレとしての線引きも曖昧で、ここからネタバレあるよ、という指示があったりなかったり、というのもよく分からない。公式によるまとめという点では、まぁ、一冊くらいは存在することは良いこととも思うが。もうちょい。

TYPE-MOONの軌跡 (星海社新書)

TYPE-MOONの軌跡 (星海社新書)

 

 

グレアム・アリソン『米中戦争前夜 新旧大国を衝突させる歴史の法則と回避のシナリオ』

 グレアム・アリソン『決定の本質』は名著だった。初版も第二版も読んだはずなのだが、初版を読んだのがはるか昔であまり違いについては言及できないものの、読んだときのドキドキワクワク感は忘れられない。どうしてキューバ危機はああいう形になったのか、核戦争を回避できたのか、についての謎を解くため、必要に応じて、複層の分析視覚を我々に提供してくれた本書は、学術書に対する感想としては不適切かもしれないが、良い研究とは、極上のミステリーよりもハラハラするものだと教えてくれた。

残念ながらグレアム・アリソンは、外交における政策決定過程の大切さを伝えてくれた後は、残念だった。もちろん、著作はあり、『核テロ』は日本語訳もされているが、決定的な仕事があるわけではない。様々なエッセイを通じて我々素人に国際関係を教示してくれる人物だった。

で、本書。トゥキディデスの罠と名付けられた、覇権国と新興国は戦争しがち、というだけの、百万回言われている議論を準えた概念を通じて、アリソンは、同じく我々素人向けに国際関係の啓蒙をしてくれている。アリソンと同じくハーバードの有名人ジョセフ・ナイもまた、名著『国際紛争』にて「はじめにツキュディディスあり(訳がこうだったか記憶が怪しいけど…)」と述べているように、スパルタとアテネが戦ったペロポネソス戦争とは基本にして、人間とは常に同じような行動を取り続けるという原則に基づく限り、全てでもあるのだ。これは私も同意するところであるし、同時に、別にペロポネソス戦争でなければいけないわけでもないこともまた確かであろう。

 本書の構成は、中国の台頭について今更ながら(今更ではあるが、みんなまだ信じてないよね、と言い訳を重ねながら)説明した後、ペロポネソス戦争とはどうやってアテネとスパルタの戦争になったのか、直近500年にどのような覇権入れ替わりに基づく衝突があったのか(あるいは回避したのか)、その中でも第一次世界大戦とはどのように起こったのか、と過去の事例を見る。そして、大国志向を持つ中国によって、あるいは自己融雪意識の強い両大国によって、どのように米中は揉め、戦争可能性が高まっているか、を描く。ここでは戦争の勃発をシミュレートしているが、戦争はある種、偶発的に発生する。そして最後に、過去の衝突回避事例を教訓だと言い張ってヒントを授けてくれている。その教訓とは、スペインとポルトガルローマ教皇という高い権威によって戦争が防がれたんだから高い権威を設定すべきとか、独仏が戦争をしなかったのはEUという上位の組織があったからだと上位組織の形成を奨めたりとか、英米の衝突回避事例から賢いリーダーを擁するべきとか、特別な関係があると良いだとか、大変示唆的なヒントを授けてくれるのだ。なら、やってみろ。

様々な批判が思い浮かぶ。そして本書は、巻末のたった2ページでそのすべてを粉砕する。自分の目についた西洋の、たった32ヵ国だけを見て何になるんだと思っても、「それは百も承知である。統計分析が目的ではない」とか、事例の説明が雑すぎると思っても、「それは百も承知である。事例の因果関係を説明したいのではない、描写をしてるだけだ」とか、百万回言われてることを何を今更と思っても、「それは百も承知である。しかし先人も解決できていない」だとか、簡潔に、的確に、そして無意味に反駁をしてくれる。学術書ではないから厳密さは不要だし、それは注釈を見ても最新の論文は少なく、そもそも参照する中国研究は中国語は達者ではない著者によるものだ。また、これまでの覇権循環論に対して、すべて先人のやってきた解決策を繰り返すのだから、評論本としてもあまり有意義とは思えない。

しかし長らく政権に入って外交のアドバイスをし続けたアリソンが書いている、というだけで意味はある。アメリカ人は何を考えているのか、を見極めるヒントになるからだ。ここでアメリカが採り得るオプションは4つあり、新旧逆転を受け入れて「こっちは譲歩するからここはダメだよ」と交換条件を設定するか、中国を弱らせるか、長期的な平和を交渉するか、米中関係を再定義するか(共通のグローバルな問題に対処するための協力関係)、らしい。

言い換えれば、驚くべき策などどこにも存在しないのだ。

 

米中戦争前夜――新旧大国を衝突させる歴史の法則と回避のシナリオ

米中戦争前夜――新旧大国を衝突させる歴史の法則と回避のシナリオ

 

 

山田真裕『二大政党制の崩壊と政権担当能力評価 (<シリーズ>政権交代期における政治意識の全国的時系列的調査研究)』

(自分の記憶のみを頼りに書いているので、間違っていたらごめんなさい)

 

山田真裕先生と言えば、最近、政治学者としてtwitterで名前を見かける方ではある。 

私が山田先生の名前を知ったのは、増山幹高先生との共著『計量政治分析入門』。2004年の著作なので、二人とも選挙分析の論文は書いていたものの、書籍化されているものはほとんど無かった時期だろう。それから13年経過しているが、当時、日本語で、政治学においてきちんと計量分析をする教科書は多くなく、稀少な基本書だったと言える。そして未だに重要な著作であり続けているのは、喜ばしいことなのか、続く書籍の少なさを嘆くべきことなのか…。とは言え無いわけではなく(RやStataを使った教科書)、恐らく当時よりも方法論についての意識も強くなっている。

 

計量政治分析入門

計量政治分析入門

 

さて本書は、 最新の選挙分析をまとめているものとしては、随一のものである。

本屋に行くと、政権交代についての著作は多くある。どうして民主党は政権を取れたのか、どうして自民党は政権を奪回できたのか、経緯をジャーナリスティックに追いかけたものや、政策に焦点を当てて分析したもの(政権交代 - 民主党政権とは何であったのか (中公新書) 民主党政権 失敗の検証 - 日本政治は何を活かすか (中公新書)二つの政権交代: 政策は変わったのか)などあり、戦後日本政治史上の大きな転換とも言えた事件に対する関心は強いことが伺える。一方で、政権交代とは選挙の結果であるのに、その選挙の結果について詳述したものは実はほとんど無い。

止むを得ない話でもある。一人一人を、選挙後に、タイムリーにアンケートを取って、誰がどの政党に投票して、その人はどういう属性で、、、という分析は、選挙という形式を採る民主主義の重要な要素として、「匿名性」の問題がある以上、実は非常に難しい。せいぜいが、テレビでも速報の出る通り、何歳代の人がどの政党に投票したか、が関の山である。

本書は、「スウィング・ヴォーター」という耳馴染みのない概念についての分析である。「スウィング・ヴォーター」というとよくわからないが、つまりは、誰が自民党から民主党、または民主党から自民党に乗り換えたのか、という分析である。強烈に支持政党を持っている人物は、選挙において、計算できる支持者として認識される(例えば支持基盤に強力な宗教団体を持っていたりとか)一方、政権交代においては「スウィング」する層こそが結果を大きく左右していることが多い。こうした層に関して、10年にわたる世論調査プロジェクトという観点から分析を進める。

では、スウィングする層は何を考えてスウィングするのか。民主党に投票しなくなった人たちは、その政権運営能力を否定したというのが山田先生の主張である。当たり前と言えば当たり前である。

一方で、自民党から民主党に乗り換えて政権交代を促したのはどういう属性の人達だったのか、というと、

1.居住年数が短く、2.メディアへの接触には大きな差異はなく、3.政治的会話相手に自民支持者は少なく、4.政策志向的(スウィングしなかった層は土着的)

だと言えるようだ。 我々のイメージにある地方土着的な自民党というイメージとは十分に合致すると言える。が、際立った違いが出たかというとそこまででも無く、「説得可能な投票者」がスウィングしたという点では、二回目の政権交代は十分に有り得た話とも捉えられよう。では二回目の政権交代は何を根拠に「政権担当能力がない」と評されたのかというと、政策的には辺野古への米軍基地移転が特に際立った焦点だったとされる。

その後、安倍政権は対して高い支持率を維持してここまで政権を維持している。しかし選挙での低投票率が示すように、圧倒的な人数の自民党支持者が支えてるというよりも、スウィング・ヴォーターにとって野党は政権担当能力を見出だせないという主張が該当しよう。安倍政権の支持率は標準偏差の大きさが確認できるわけで、つまりは好き嫌いが近年稀に見るくらいにハッキリ分かれている。だからこそ野党が狙うべきは、確固たる自民党支持者ではなく、支持をスウィングしうる層への訴求であるのだが、野党に対して政権担当能力を国民が見出だせない限りはそれも難しい。野党は与党よりも、よりカリスマのある党首が求められるのだが、それが小池氏なのか、枝野氏なのか、はたまた新たな人物なのか、は現状分からない。

 

しかし、国民はどうやってその政権担当能力を認識するのか。確かに本書では政策評価の相関性等の分析はされている。しかし難しいのは、それは純粋に政策評価から導かれた評価なのか、それとも坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、なのか、生(なま)の政治を鑑みるとその区別は難しいと言えば難しい。一度嫌いになってしまったら、もう、全ての振る舞いが下品に見えてしまうのであれば、あるいは閾値を超えた失態をした瞬間にマスメディアが一気に叩きに向かうのであれば、純粋な政策評価がなされているとは思えない。例えば、辺野古の問題に触れなければ民主党政権担当能力は高く評価されたままだったのか、というとどうにも直観的にはそう思えない。となると政権交代能力判断の源泉がはっきりしない限り、山田先生の主張とは異なり、恐らく野党に反省・改善の余地は残されていないのではないのだろうか。

もう一点は、10年間の分析ではあるものの、調査の一貫性があるようで物足りない点である。政策の評価についてもその時々の話題になった志向や政策に対する評価を調査しているわけだが、となるとジャーナリスティックな話題を数字的にフォローしました、以上の話にはなり得ないのでは無かろうか。一般論として、操作化する要素の抽出方法こそが量的研究の抱える問題点と思える。だからこそ出てくる結論は常識的な範囲から抜け出せなくなる。

小倉和夫、康仁徳『朝鮮半島 地政学クライシス 激動を読み解く政治経済シナリオ』

 前回、ウォルツ、セーガン『核兵器の拡散』についてのエントリを書いてから、引き続き我が国の西方が騒がしいままである。

と言っても、ほとんどが我が国を飛び越してやり取りされているので、東西に挟まれて我が国はなすすべなく、手で頭を押さえてしゃがみ込むくらいが関の山なのだが。。。

テレビは平常通りとして、最近ではTwitterでも素人時事政談が繰り広げられ、皆が皆、私は北朝鮮の思惑が分かってますというしたり顔で語るものだから、食傷気味どころか完全に下痢になってしまった。基本は、<平和ボケをしている間にこんなになってしまった>、<どうして日本人はこうまで平和ボケで、本当の戦争を知らなくて>、、、という自称リアリスト達の悲観的な笑顔ばかりが目に付くのだが、残念ながら「本当の戦争」なるものを知っている人は、そもそも世界的に見てほぼいない。どの視点で見ても、何が起きていて、これから何が起こるのか、など本当のところは分からない。況してや当事者であればあるほど、冷静な分析・観察はできない。 

さて本書は、日米中露韓の朝鮮研究者(東アジア研究者)が揃って、かの問題に様々な視点から取り組んでいる。怎、日本人は日本から見た北朝鮮についてしか知らない。だから例えば、北朝鮮と中国が常に歩を同じくをすると勘違いする人すらいるが、当然のことながら現実的ではない。中国にとって、北朝鮮を見捨てるというのも選択肢の一つにあることは十分に合理的であるはずなのだが、中国側の視点が欠けるとそれすら考えられなくなる。中国人研究者である姜龍範の論文は、中国側から見たら地政学的要地であり、しかし制御できない北朝鮮、という両面があることを描き出す。そういった風に、複数の立場から語られるということは、それ以外の立場である人間からは見えないものが見えることがママある。これらを上手く統合できれば、随分と奥行きのある景色になってくる。

あるいは、核のエスカレーションについて米朝相互の動きをきちんと史的に追いかけることも出来ずに、今回の発射にばかり視線をやってしまうのも問題であろう。三代目個人のパーソナリティがそのまま北朝鮮と言う国家の動きな訳がない。勿論、初代、二代目からの経緯があるはずである。どうして、一度は沈静化した核開発を復活させるに至ったのか、を理解することは、彼らのインセンティブ自体を把握するのに有用だろう。

当たり前のことだが、ある国家(北)のインセンティブは別の国家(米)の動きに刺激された結果、ということが大いにある。一方で、別の国家(米)の動きは、勿論ある国家(北)の動きのみに由来するはずもない。それとはまた別の国家の動きであったり、国内、大統領のパーソナリティ、全てが影響する。倉田秀也論文は、核開発の流れについて、主に米朝平和協定と非核化、という観点から組み立て直しており、米朝中の視点を織り交ぜて叙述することで、その当たり前の前提を思い出させてくれる。

プログラムとしては、以上の通り、地域、歴史の両面から北朝鮮を立体的に描こうという試みであり、評価に値する。一方で内容は玉石混交の論文集であり、ベテランであっても、あ~手抜きしてるな、というのが分かるのもちらほらある。何より、注釈のつけ方がまちまちなので、どれがどこから判断された事実であるのかが読者には追いづらくなってるのが残念である。うまく抜き出して読めれば有用なのだが…。もう一歩、物足りない。

 

スコット・セーガン、ケネス・ウォルツ『核兵器の拡散』

最近、何やら我が国の西の方で、核兵器の話題が騒がしい。

ところで国際関係論の世界で核兵器の話題と言ったら、核抑止の話か、核拡散の話の二択に大別できる。しかし実質的には同じ話題かもしれない。

そもそも核についての話題は通常戦力とどう "質的" に異なるのか、というのは簡単ではない。通常戦力にも抑止能力はあるわけで、核抑止とはその延長線上、強化版と言ってもいい。一方で、核兵器と通常戦力は絶対的に区別されて議論されているのも間違いない。さて、核兵器と通常戦力は何が違うのか。

一番の違いはその破壊力である。何を当たり前のことを言ってんだバカ、と馬鹿にされそうだが、待ってほしい。もうちょっと聞いてほしい。

まず通常戦力では原則、攻撃されて自分たちがすぐさま全滅するかもしれない、という懸念を抱くことはほぼない。ツキュディデスのメロス島の時代ではないのだ(メロス島の場合は無条件降伏したうえで男が全員処刑されているのでもっと悲惨であるが…)。現代において、攻撃しあって被害が出ることはあっても、だからといって滅ぶことはそうそうないし、況してやたとえ片方の国が滅んでも両方が滅ぶことはない。

それが核兵器となると、話が違う。何たって、考えなしに射てば核で反撃されて、そして自分たちが滅ぶ。確信できる。それこそが相互確証破壊、破壊がassuredされた状態なのだ。ナイの言うところの、水晶効果とも言われる、滅ぶ未来が簡単に予見されるのだ。これは核兵器の時代に初めて生まれた事態だろう。理屈上は通常戦力でも滅びうる(例えば双方が文字通り死力を尽くし、どっちも負けのような状態に陥る等)のだが、相互に全滅が確実、というのはあまり現実的でない。

核拡散に戻ると、拡散した核は相互に破壊しうる関係の国々を増やす。それは相互に、核によってどんどん抑止された状態とも言える。その意味で核拡散の話題は核抑止の亜種のようなもので、通常戦力が途上国に拡散するときと話の焦点が異なることが分かる。つまり、通常戦力では大国側が滅亡することは想定されず、力が絶対的に抑止されることはない。ちょっと途上国や小国が通常戦力を強化したところで、大国が本気を出せばすぐに潰せる。それはイラクですら、である(統治が出来るかどうかはまた別の論点である)。一方で核兵器では、大国であっても小国でも対等にお互いに滅ぼしうる能力を持つことになる。普通に考えれば恐ろしい話だ。

ケネス・ウォルツはそれに対し、核拡散が進行すればするほど、抑止関係も拡散するのだから、核拡散は世界の安定にとって望ましいと主張した。我が国で核兵器について議論をすれば、「どうやって核の拡散を抑えられるか」とか「核は撲滅すべきだ」という左翼界隈と、「日本も核兵器を持つべきである」「せんごれじーむからのだっきゃく」という右翼界隈の一生噛み合わない議題しかないのだが、さすがにアメリカ人は視点が違う。対してスコット・セーガンは反論していて、「いやいや、偶発的な事故とかあるでしょ」「小国とかに拡がるのは流石にやばくない?」とか様々言う。現実的にはセーガンの方が直観的に真っ当なことを言っているようにしか見えないし、ウォルツはおかしいとしか思えないのだが、しかし現実だけを見れば核をお互いに撃ち合うという事態が発生していない以上、ウォルツに分があるようになってしまう。本書の第5章の事例で出てくるインドとパキスタンでさえ、核を撃ち合わなかったのだ。最悪、世界が滅ぶまではこの議論続けられるんじゃ、とすら思える。しかし、「これまで」は拡散を抑制できていたからそうだったかもしれないが、「これから」もそうであるという保証はない。アメリカはこれまで、北朝鮮のような小国からの核の恐怖を味わったことがないが、自分達が標的になっても同じことを言い続けられるのか、ウォルツに生き返ってもらって話を聞いてみたい。いま、「北朝鮮核兵器保有すること、射程を広げることは、我が国がかの国に核兵器を発射するリスクを減じることに繋がる以上、歓迎すべき事態だ」と胸を張って言えるのだろうか?

(ちなみに同盟理論で著名なウォルトは、これまでもソ連による核の恐怖は味わってきたし、大して憂慮すべきことではない、とtwitterで言っていた。北朝鮮という国が今後も合理的に振る舞えるのであれば、然りだと思う。)

追加で、本書で気になる論点は、では戦略兵器である核兵器と通常戦力の間隙を埋めるような、戦術核についての掘り下げはない(と思う)。相互に全滅しない、通常戦力によりも強力だが局所的な破壊しかもたらさない核兵器、については、第二撃能力を持たない以上、制限すべきなのだろうか? それとも核である以上、抑止の観点から拡散すべきなのだろうか? さておきこの観点から見ると、ウォルツの意見は核兵器が通常戦力と致命的に隔絶されているという視点が非常に肝要なのだ、という事実に気付かされる。

 

うろ覚えのままで上記を書いたので、あとで修正するかも。

 

核兵器の拡散: 終わりなき論争

核兵器の拡散: 終わりなき論争