J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』

ミスター・アントリーニに話したエピソード、主人公があることを話すのに対して、話がわき道に逸れると、「わき道!」と指摘する授業があって、それが厭で落第したが、とは言え、一貫性のない話は厭だ、という主張があって、本書における手法はそれに近い気もする。

何の話と言われてもまとめられないが、ひじょーーーにざっくり言うと、多感な少年が、落第を切っ掛けに放浪して、その度にずるずるとダメな人生を歩んでいくのだけど、さまざまなわき道エピソードが用意されていて、ホールデンという人物が、色んな人と交わっては、その場その場でとてつもない行動力と話術を発揮しながら取り繕っては空振りする、その様子が魅力的に語られる。ひたすら孤独、孤独感と言った方が正しいか、を覚えさせる。だからホールデンが「やれやれ」と呟くたび、「春樹だ!村上春樹のやつだ!」と騒いでも、そのくらいのわき道はOKだろう。サリンジャーの魅力とは関係なくても。

春樹訳として賛否両論なのは、二人称。つまり、誰かに対する告白文として、「君」が出てくる。これを誰か、と捉えていいのか、それともより総体的、一般的な「人」として捉えるべきなのか、という論点がある。あなた、ではないyouがある、という批判な訳だ。柴田元幸は、英語話者はyouに意識していない相手を含ませているはずだ、と村上春樹を擁護したらしい。その適否は私には答えるべくもないが、ネイティブスピーカーに対して、お前ら、自分の喋ってる言葉の意味を分かってないんだよ、と批判するのだとすれば、自分の文化から他所のものを比較文化するという教科書のような好例とも言える。しかし柴田元幸村上春樹の友達だしなぁとも思わなくもない。

 

 

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)