加藤節『ジョン・ロック 神と人間との間』

加藤節という人は成蹊大で教えていたことから安倍晋三に指導し、彼は授業に出てなかったのに単位を取って卒業したと暴露して一躍政権批判側で祭り上げられることになったが、政治思想の業界ではジョン・ロック研究者として著名な人物である。ジョン・ロックと言えば多くの人が中学か高校における社会の授業で ホッブズとの差異として抵抗権を主張したことは知っているだろうから、その研究者として筋としては一貫しているようにも思える。

ところでジョン・ロック研究と言えば加藤先生がというより、加藤先生と旧知であるケンブリッジジョン・ダンこそが画期的な研究者として知られ、加藤先生はジョン・ダンのロック研究を翻訳している。ジョン・ダンについては以下に詳しい。

http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/BA88454709-00000009-0183.pdf%3Ffile_id%3D118562&ved=2ahUKEwijj4qMs7bcAhWHIIgKHfTPC4QQFjACegQIBxAB&usg=AOvVaw34gw0VgmxIXIH8dhkTxofv

 

本書はジョン・ダンの解釈を踏まえて、加藤先生がロックの生涯と思想遍歴をまとめた新書である。我々が社会の授業で習ったことと何が一番違うかというと、本書副題の通り、ロックのスタンスは常に「神と人間の間」における在り方について悩むという点にあろう。

常識的な理解として、ロックとは近代的な、脱宗教化を果たした思想家であり、社会契約説を推し進めた人物として語る、丸山眞男以来の解釈がある。これ自体は間違いではなく、『統治二論』は王党派トーリーに対し、議会派ウイッグからの批判として書かれたものだが、ここにおいて論敵となったフィルマーは、「絶対王政」と「人間は自由に生まれついていないこと」という二点を、アダムの子孫たる人間の社会における家父長権を擁護する立場から導きだしている。これに対しロックは、人間の生来的な自由を主張し、政治と社会を人類に取り戻した。フィルマー的な不自由な状態からは脱することが出来ている。

但しその取り戻し方は結局、宗教的であった。

ロックは敬虔なキリスト教徒・ピューリタンであった。そのため彼の思想はキリスト教がその基礎となっており、例えば『統治二論』において我々がよく知る「プロパティ」は(所有権などとも訳される)「生命・健康・自由」を意味するとされるが、これが人間に固有で、侵害は自然法に違反する自然権であるとされたのは、彼の神学的パラダイムあってこそだし、そしてプロパティは神への義務を遂行するのに必要な基体として固有のものとされたのだった。そして上記の抵抗権とは、神への義務としてのプロパティの保全が守れないという、あくまで政治的統治の信託違反に対し、天への訴えの道として残された手段に過ぎなかった。かのようにロックは神と人間の間で苦しみ続けることになる。

一方で、ではキリスト教を当為として掲げるかというとそうでもない。というのも政治と宗教は分離されている。なぜならば、キリスト教の目的とは「永遠の生命」である限り、現世的利益である政治には介入しないのが筋であり、キリスト教政治共同体とはキリストの福音には存在しないものだったからである。『寛容についての手紙』とは、そうした政治における寛容を擁護する議論を展開したが、それでもやはり、政治的統治は固有権を保全する点で価値のあるものである以上、それを害する存在、すなわち道徳的規則を否定するものや、寛容の義務を否定するもの、外国の支配権の確立を擁護する教会構成員、無神論者は寛容の対象外となるのだ。

以降ロックはそこから離れ、認識=道徳論を吟味することになる。生涯のテーマである『人間知性論』では「神が人間の『行為』に対して定めた法」を知りたいがために、認識論を深めることになった。が、その基礎である神の意志は認識しうる保証はなく、辛うじて「奇跡」が神の啓示を伝えてくれる方法になる。そして『キリスト教の合理性』では、聖書に含まれる完全な倫理の体系を析出する。なんとここにおいて、「行いの法」と「信仰の法」は結合された。「一般的黄金律」すなわち「あなたたちが人々からして欲しいと思うことは全て、そのようにあなたたちも彼らにせよ」という命令から、認識=道徳論と政治=寛容論が撞着することになったのである。

 

ともあれ、社会の授業で扱われてきたロック像を払拭してくれる新書サイズのものはこれまでなかったので、まずは喝采をしたい。しかし間違ったロック像は問題であったのか、というとこれは悩ましくて、べつに正しいロック解釈に従わなければならない決まりもない。但し、ロックがどうしてそのように考えたのか、を追いかけると、そこには我々の考え方との相違が浮かび上がってきて、我々が当為としていた前提もがらがらと崩れてくる。その後の議論もどこまで活用できるのか怪しくなってくる。たとえば反自民の立場でロックを引用しようとも、そこはなかなかセンスは良くなさそうだとか。

なかでもプロパティ論の曖昧さは難しい問題だ。エピローグにちょろっとしか書かれてないが、プロパティの根源に人間の労働力がある以上、開墾した植民地は入植者のものになるという理論的根拠が出来てしまったのだ。プロパティ論に限らず、ロックの受容史は、実は理論の複眼的な理解において価値があると思うので、受容過程や、オーソドックスな理解のもたらした問題なんかがあればもう少し見てみたかった気がする。

 

ジョン・ロック――神と人間との間 (岩波新書)

ジョン・ロック――神と人間との間 (岩波新書)