坂上秋成『TYPE-MOONの軌跡』

みんな大好き、TYPE-MOONのこれまでの歴史をまとめた本。とても簡単にまとめられており、Wiki +α程度の情報量が収められている。情緒不安定な奈須きのこが、武内崇ほか、様々な周りの大人にプッシュされてスターダムまで駆け上がっていく様子が描かれる一方、空の境界月姫Fate/Stay nightについての、坂上秋成というライターによる、分析というには弱く、あらすじというには不要な、誰でも辿り着ける程度の批評が入っており、焦点が定まらない。ネタバレとしての線引きも曖昧で、ここからネタバレあるよ、という指示があったりなかったり、というのもよく分からない。公式によるまとめという点では、まぁ、一冊くらいは存在することは良いこととも思うが。もうちょい。

TYPE-MOONの軌跡 (星海社新書)

TYPE-MOONの軌跡 (星海社新書)

 

 

グレアム・アリソン『米中戦争前夜 新旧大国を衝突させる歴史の法則と回避のシナリオ』

 グレアム・アリソン『決定の本質』は名著だった。初版も第二版も読んだはずなのだが、初版を読んだのがはるか昔であまり違いについては言及できないものの、読んだときのドキドキワクワク感は忘れられない。どうしてキューバ危機はああいう形になったのか、核戦争を回避できたのか、についての謎を解くため、必要に応じて、複層の分析視覚を我々に提供してくれた本書は、学術書に対する感想としては不適切かもしれないが、良い研究とは、極上のミステリーよりもハラハラするものだと教えてくれた。

残念ながらグレアム・アリソンは、外交における政策決定過程の大切さを伝えてくれた後は、残念だった。もちろん、著作はあり、『核テロ』は日本語訳もされているが、決定的な仕事があるわけではない。様々なエッセイを通じて我々素人に国際関係を教示してくれる人物だった。

で、本書。トゥキディデスの罠と名付けられた、覇権国と新興国は戦争しがち、というだけの、百万回言われている議論を準えた概念を通じて、アリソンは、同じく我々素人向けに国際関係の啓蒙をしてくれている。アリソンと同じくハーバードの有名人ジョセフ・ナイもまた、名著『国際紛争』にて「はじめにツキュディディスあり(訳がこうだったか記憶が怪しいけど…)」と述べているように、スパルタとアテネが戦ったペロポネソス戦争とは基本にして、人間とは常に同じような行動を取り続けるという原則に基づく限り、全てでもあるのだ。これは私も同意するところであるし、同時に、別にペロポネソス戦争でなければいけないわけでもないこともまた確かであろう。

 本書の構成は、中国の台頭について今更ながら(今更ではあるが、みんなまだ信じてないよね、と言い訳を重ねながら)説明した後、ペロポネソス戦争とはどうやってアテネとスパルタの戦争になったのか、直近500年にどのような覇権入れ替わりに基づく衝突があったのか(あるいは回避したのか)、その中でも第一次世界大戦とはどのように起こったのか、と過去の事例を見る。そして、大国志向を持つ中国によって、あるいは自己融雪意識の強い両大国によって、どのように米中は揉め、戦争可能性が高まっているか、を描く。ここでは戦争の勃発をシミュレートしているが、戦争はある種、偶発的に発生する。そして最後に、過去の衝突回避事例を教訓だと言い張ってヒントを授けてくれている。その教訓とは、スペインとポルトガルローマ教皇という高い権威によって戦争が防がれたんだから高い権威を設定すべきとか、独仏が戦争をしなかったのはEUという上位の組織があったからだと上位組織の形成を奨めたりとか、英米の衝突回避事例から賢いリーダーを擁するべきとか、特別な関係があると良いだとか、大変示唆的なヒントを授けてくれるのだ。なら、やってみろ。

様々な批判が思い浮かぶ。そして本書は、巻末のたった2ページでそのすべてを粉砕する。自分の目についた西洋の、たった32ヵ国だけを見て何になるんだと思っても、「それは百も承知である。統計分析が目的ではない」とか、事例の説明が雑すぎると思っても、「それは百も承知である。事例の因果関係を説明したいのではない、描写をしてるだけだ」とか、百万回言われてることを何を今更と思っても、「それは百も承知である。しかし先人も解決できていない」だとか、簡潔に、的確に、そして無意味に反駁をしてくれる。学術書ではないから厳密さは不要だし、それは注釈を見ても最新の論文は少なく、そもそも参照する中国研究は中国語は達者ではない著者によるものだ。また、これまでの覇権循環論に対して、すべて先人のやってきた解決策を繰り返すのだから、評論本としてもあまり有意義とは思えない。

しかし長らく政権に入って外交のアドバイスをし続けたアリソンが書いている、というだけで意味はある。アメリカ人は何を考えているのか、を見極めるヒントになるからだ。ここでアメリカが採り得るオプションは4つあり、新旧逆転を受け入れて「こっちは譲歩するからここはダメだよ」と交換条件を設定するか、中国を弱らせるか、長期的な平和を交渉するか、米中関係を再定義するか(共通のグローバルな問題に対処するための協力関係)、らしい。

言い換えれば、驚くべき策などどこにも存在しないのだ。

 

米中戦争前夜――新旧大国を衝突させる歴史の法則と回避のシナリオ

米中戦争前夜――新旧大国を衝突させる歴史の法則と回避のシナリオ

 

 

小倉和夫、康仁徳『朝鮮半島 地政学クライシス 激動を読み解く政治経済シナリオ』

 前回、ウォルツ、セーガン『核兵器の拡散』についてのエントリを書いてから、引き続き我が国の西方が騒がしいままである。

と言っても、ほとんどが我が国を飛び越してやり取りされているので、東西に挟まれて我が国はなすすべなく、手で頭を押さえてしゃがみ込むくらいが関の山なのだが。。。

テレビは平常通りとして、最近ではTwitterでも素人時事政談が繰り広げられ、皆が皆、私は北朝鮮の思惑が分かってますというしたり顔で語るものだから、食傷気味どころか完全に下痢になってしまった。基本は、<平和ボケをしている間にこんなになってしまった>、<どうして日本人はこうまで平和ボケで、本当の戦争を知らなくて>、、、という自称リアリスト達の悲観的な笑顔ばかりが目に付くのだが、残念ながら「本当の戦争」なるものを知っている人は、そもそも世界的に見てほぼいない。どの視点で見ても、何が起きていて、これから何が起こるのか、など本当のところは分からない。況してや当事者であればあるほど、冷静な分析・観察はできない。 

さて本書は、日米中露韓の朝鮮研究者(東アジア研究者)が揃って、かの問題に様々な視点から取り組んでいる。怎、日本人は日本から見た北朝鮮についてしか知らない。だから例えば、北朝鮮と中国が常に歩を同じくをすると勘違いする人すらいるが、当然のことながら現実的ではない。中国にとって、北朝鮮を見捨てるというのも選択肢の一つにあることは十分に合理的であるはずなのだが、中国側の視点が欠けるとそれすら考えられなくなる。中国人研究者である姜龍範の論文は、中国側から見たら地政学的要地であり、しかし制御できない北朝鮮、という両面があることを描き出す。そういった風に、複数の立場から語られるということは、それ以外の立場である人間からは見えないものが見えることがママある。これらを上手く統合できれば、随分と奥行きのある景色になってくる。

あるいは、核のエスカレーションについて米朝相互の動きをきちんと史的に追いかけることも出来ずに、今回の発射にばかり視線をやってしまうのも問題であろう。三代目個人のパーソナリティがそのまま北朝鮮と言う国家の動きな訳がない。勿論、初代、二代目からの経緯があるはずである。どうして、一度は沈静化した核開発を復活させるに至ったのか、を理解することは、彼らのインセンティブ自体を把握するのに有用だろう。

当たり前のことだが、ある国家(北)のインセンティブは別の国家(米)の動きに刺激された結果、ということが大いにある。一方で、別の国家(米)の動きは、勿論ある国家(北)の動きのみに由来するはずもない。それとはまた別の国家の動きであったり、国内、大統領のパーソナリティ、全てが影響する。倉田秀也論文は、核開発の流れについて、主に米朝平和協定と非核化、という観点から組み立て直しており、米朝中の視点を織り交ぜて叙述することで、その当たり前の前提を思い出させてくれる。

プログラムとしては、以上の通り、地域、歴史の両面から北朝鮮を立体的に描こうという試みであり、評価に値する。一方で内容は玉石混交の論文集であり、ベテランであっても、あ~手抜きしてるな、というのが分かるのもちらほらある。何より、注釈のつけ方がまちまちなので、どれがどこから判断された事実であるのかが読者には追いづらくなってるのが残念である。うまく抜き出して読めれば有用なのだが…。もう一歩、物足りない。

 

スコット・セーガン、ケネス・ウォルツ『核兵器の拡散』

最近、何やら我が国の西の方で、核兵器の話題が騒がしい。

ところで国際関係論の世界で核兵器の話題と言ったら、核抑止の話か、核拡散の話の二択に大別できる。しかし実質的には同じ話題かもしれない。

そもそも核についての話題は通常戦力とどう "質的" に異なるのか、というのは簡単ではない。通常戦力にも抑止能力はあるわけで、核抑止とはその延長線上、強化版と言ってもいい。一方で、核兵器と通常戦力は絶対的に区別されて議論されているのも間違いない。さて、核兵器と通常戦力は何が違うのか。

一番の違いはその破壊力である。何を当たり前のことを言ってんだバカ、と馬鹿にされそうだが、待ってほしい。もうちょっと聞いてほしい。

まず通常戦力では原則、攻撃されて自分たちがすぐさま全滅するかもしれない、という懸念を抱くことはほぼない。ツキュディデスのメロス島の時代ではないのだ(メロス島の場合は無条件降伏したうえで男が全員処刑されているのでもっと悲惨であるが…)。現代において、攻撃しあって被害が出ることはあっても、だからといって滅ぶことはそうそうないし、況してやたとえ片方の国が滅んでも両方が滅ぶことはない。

それが核兵器となると、話が違う。何たって、考えなしに射てば核で反撃されて、そして自分たちが滅ぶ。確信できる。それこそが相互確証破壊、破壊がassuredされた状態なのだ。ナイの言うところの、水晶効果とも言われる、滅ぶ未来が簡単に予見されるのだ。これは核兵器の時代に初めて生まれた事態だろう。理屈上は通常戦力でも滅びうる(例えば双方が文字通り死力を尽くし、どっちも負けのような状態に陥る等)のだが、相互に全滅が確実、というのはあまり現実的でない。

核拡散に戻ると、拡散した核は相互に破壊しうる関係の国々を増やす。それは相互に、核によってどんどん抑止された状態とも言える。その意味で核拡散の話題は核抑止の亜種のようなもので、通常戦力が途上国に拡散するときと話の焦点が異なることが分かる。つまり、通常戦力では大国側が滅亡することは想定されず、力が絶対的に抑止されることはない。ちょっと途上国や小国が通常戦力を強化したところで、大国が本気を出せばすぐに潰せる。それはイラクですら、である(統治が出来るかどうかはまた別の論点である)。一方で核兵器では、大国であっても小国でも対等にお互いに滅ぼしうる能力を持つことになる。普通に考えれば恐ろしい話だ。

ケネス・ウォルツはそれに対し、核拡散が進行すればするほど、抑止関係も拡散するのだから、核拡散は世界の安定にとって望ましいと主張した。我が国で核兵器について議論をすれば、「どうやって核の拡散を抑えられるか」とか「核は撲滅すべきだ」という左翼界隈と、「日本も核兵器を持つべきである」「せんごれじーむからのだっきゃく」という右翼界隈の一生噛み合わない議題しかないのだが、さすがにアメリカ人は視点が違う。対してスコット・セーガンは反論していて、「いやいや、偶発的な事故とかあるでしょ」「小国とかに拡がるのは流石にやばくない?」とか様々言う。現実的にはセーガンの方が直観的に真っ当なことを言っているようにしか見えないし、ウォルツはおかしいとしか思えないのだが、しかし現実だけを見れば核をお互いに撃ち合うという事態が発生していない以上、ウォルツに分があるようになってしまう。本書の第5章の事例で出てくるインドとパキスタンでさえ、核を撃ち合わなかったのだ。最悪、世界が滅ぶまではこの議論続けられるんじゃ、とすら思える。しかし、「これまで」は拡散を抑制できていたからそうだったかもしれないが、「これから」もそうであるという保証はない。アメリカはこれまで、北朝鮮のような小国からの核の恐怖を味わったことがないが、自分達が標的になっても同じことを言い続けられるのか、ウォルツに生き返ってもらって話を聞いてみたい。いま、「北朝鮮核兵器保有すること、射程を広げることは、我が国がかの国に核兵器を発射するリスクを減じることに繋がる以上、歓迎すべき事態だ」と胸を張って言えるのだろうか?

(ちなみに同盟理論で著名なウォルトは、これまでもソ連による核の恐怖は味わってきたし、大して憂慮すべきことではない、とtwitterで言っていた。北朝鮮という国が今後も合理的に振る舞えるのであれば、然りだと思う。)

追加で、本書で気になる論点は、では戦略兵器である核兵器と通常戦力の間隙を埋めるような、戦術核についての掘り下げはない(と思う)。相互に全滅しない、通常戦力によりも強力だが局所的な破壊しかもたらさない核兵器、については、第二撃能力を持たない以上、制限すべきなのだろうか? それとも核である以上、抑止の観点から拡散すべきなのだろうか? さておきこの観点から見ると、ウォルツの意見は核兵器が通常戦力と致命的に隔絶されているという視点が非常に肝要なのだ、という事実に気付かされる。

 

うろ覚えのままで上記を書いたので、あとで修正するかも。

 

核兵器の拡散: 終わりなき論争

核兵器の拡散: 終わりなき論争

 

 

ハインライン『夏への扉』

夏が近づいてきたので、夏への扉を開いたが、来年以降は夏こなくてもいいかな、と思った。何せ暑いし。夏を満喫などするはずもないのだから、春でいい。春は良かった。春を満喫することとは花見というわけではなくて、すでに陽気が春だったと思うことで足りる。秋は陽気とか言っている間もなく冬になるので、諦めてすぐに春を待つしかない。春を待つこともまた良い。そのうえ春には夏を待つという醍醐味がある。つまり夏が来ればより嬉しくなる。あれ、何の話してる???

 

言ってることがおかしくなってしまったので、過去に遡って本文を修正しとこう。

夏が近づいてきたので、夏への扉を開いたが、もう読まなくていいかな、と思った。厚くないし。中身も軽いし。満喫などするはずもなかった。

本書を満喫することとは猫見というわけではなくて、発明家が、女に騙され、冷凍睡眠で未来に送られたが、彼はすでに幼い姪に愛されており、タイムマシンで過去へ戻って、色々頑張って、好きだった姪に大きくなったら冷凍睡眠に入ってもらうよう約束して結婚するのだ。ロリコン小説ということで事足りる。猫が活躍したとか行ってる間もなく冬眠に入るので、諦めて幼い姪を待つしかない。大きくなる姪を待つという醍醐味がある。つまり光源氏計画である。

なろう小説におけるざまぁ物でしかないと思うのだが、どうして未だにこれほど名作と名高いのか、不思議でならない。SFマガジンなどで人気投票をするとトップ10くらいに入ってくるけど、海外雑誌であるローカスとかでやると同じハインラインでも『月は無慈悲な女王』などは上位にくる一方で、本書は下の方にポツンとある。日本がズレてるのだろうか?(各国別人気比較とかないかな…)

 

夏への扉 (ハヤカワ文庫SF)

夏への扉 (ハヤカワ文庫SF)

 

 

田渕直也『入門実践金融 証券化のすべて』

特別に語るべくもないというのが正直なところで、それはこういった入門書においては十分な誉め言葉として捉えてもらいたいのだが、それよりも田渕直也というひとは、デリバティブ関連の実務家向け入門書を書いている印象が強かったものだから、証券化についても書くというのは意外だと思う一方、マーケット業務を担当していて証券化商品を運用商品として売るか買うかするというのは当然の選択肢の一つとして上がってこようものと思われるし、その一環でデリバも証券化も両方とも分かるというのは違和感はないのだが、少なくとも領域が違うことは確かであり、両方とも入門書の域を出ないのでまぁ書けると言えば書けるか、と納得はするし、包括的に体系立てて説明してくれるのは新鮮な驚きもあってありがたいのだけれど、もう少し技術的、専門的な話はどこまで書けるのだろうか、などと感じて経歴を見ると長銀三菱UFJ投信でマーケット商品の開発をずっとやってきたとあるので、金融工学的から鑑みたバリューの計算方法とか、より現代的なデリバセールスマンの実態とか、実際の運用サイドの目線の話は苦手そうだなぁと思わなくもないのであるが、とは言え、そういった部分は往々にして文章には出てこないもので、密教的に、そこに属する人間にのみ継承されていくため、仕方ないと言えば仕方ないのだ。

(特に意味もなく一息で書いてみた)

 

入門実践金融 証券化のすべて

入門実践金融 証券化のすべて

 

 

女性声優アーティスト ディスクガイド 、 ドリカンからこむちゃへ アニソン黄金伝説!

声優の歌声にクオリティを問われるようになったのはいつの頃からか。アニソンではない、声優の歌声である。アニソンの長い歴史の中においてどこを境目にするか、は悩ましい問題だが、90年代半ばくらいを一つの時代の変節点とすることは多いのではないか。声優ブームとしては第三次声優ブーム。これは、深夜アニメというものが出てきたタイミング と符合する。あるいは先駆けとしてのOVA文化まで遡っても良い。いずれにせよ、大人向けのアニメが作られ始めたことと関係しそうだ。(とはいえ、スラップスティックスもNG5もあったのだが)

本書は女性声優アーティストディスクガイドとあるが、声優を前面に打ち出すビジネスが始まり、声優にヴィジュアルが問われ始め、アイドルとしての役割が強まった90年代半ば以降が対象である。時代を通底してアーティストとしての第一線を行く坂本真綾の特集(坂本真綾名義で発売した全CDのディスクガイドとなっている)、椎名へきるのインタビューが掲載された後、時代ごとの各CDに対して1頁程度を割いて女性声優ディスクを紹介している。坂本真綾を冒頭に持ってくるあたり、明らかに、良質なポップスを提供するアーティストとして認識する編集方針になっていることが分かる。

世代的な好みは分かれようが、今の時代の一般的な認知度の高い水樹奈々とかを載せておけば安パイ、といった形になっていないことは非常にありがたい。最近のCDまで紹介があるが(+竹達彩奈のインタビュー付。ちなみに彼女のアルバムはあの筒美京平が楽曲提供している)、大量の声優が当然のようにCDを発売する昨今、売上ではなく、クオリティの高いCDを紹介してることも◎。音楽マニアにこそ向けたディスクガイドである。

 

女性声優アーティスト ディスクガイド

女性声優アーティスト ディスクガイド

 

で、なんで↓を急に紹介するかというと、逆にドリカン・こむちゃというのは、その時代のオタクに最も受け入れられた音楽を反映する音楽番組であり、掲載される楽曲の乖離ゆえである。投票を反映するランキング番組というものは、声の大きいオタクを掴まえているかどうか、が順位を上下させるという点で、純粋な人気ランキングとはズレてくる。しかし時代というか、ムーブメントを捉えるという点で言えば、実は向いているのではないか、などと思っていたりもする。たとえばtwo mixとかね。

で、名盤を紹介する↑とは違う、より時代の雰囲気を味わるのならば↓を補完的に読むと、アニソンの歴史の表と裏の両方が見えるという点で、より複層的な捉え方が出来そうに思ってます。

 

ドリカンからこむちゃへ アニソン黄金伝説!

ドリカンからこむちゃへ アニソン黄金伝説!