くまなの『くま クマ 熊 ベアー』

「なろう小説」というジャンルがある。「小説家になろう」というサイトで掲載されるアマチュアの小説だ。人気作は多少の手直しの上で書籍化されるのだが、最近では完全になろうバブルが来ていて、ちょっとでも人気を博すとすぐに書籍化する。

ちなみに書籍化の際には、

1.連載をストップ&閲覧不可にする

2.ダイジェスト化する

3.そのまま連載続行

というパターンがあり、最近では3のパターンで固まってきた感じがする。宣伝を考えると、連載中止にしてしまったらそれ以上の読者獲得ができなくなるのだから、まぁそうなるよな、とは思う。しかし、連載そのままの書籍化というのではそれも購入の意欲が削がれるから、プロ編集の手で手直ししながら連載継続、という形に落ち着いたのだろう。

「なろう小説」には傾向がある。勝手に いくつか挙げつらうと、1.現世で死んで、異世界に転生  2.転生先では現世とは違い、特殊スキルか現代日本の知識を活かして活躍。ハーレム構築 3.神が出てくるが、キャラ崩壊  4.文章はやや稚拙な一人称etc,etc...。勝手なことを言っているが、全部がそうじゃないし、もっといろいろあるのだが、そこはあくまで傾向ということで。

私は正直なところ、「なろう」はハードカバーのちゃんとしたやつを読みたくない、普通の小説にしても重たいと感じる気分のときに読んでいる。何というか、メンタルの疲れに対して、最も"ちょうどいい"のだ。漫画でもいいのだが、漫画よりも軽い。きらら系四コマ漫画という、日常の軽さを武器にした漫画群でさえも、プロの仕事だからか、ちゃんとしていて重たいのだ。

その点、『くま クマ 熊 ベアー』は軽い。すごく軽い。何せページの下半分は真っ白だ(言い過ぎ)。モノローグ形式で、表現に凝ったりしない分、一文は短い。説明は最低限の伝わる程度しかしないのだ。下手したら伝わらない。昔、あかほりさとるが表現の軽い小説を意図的に濫造していたが、この軽さはそれ以上ではないか。心の機微も少ないので、もっと淡々としていて、あかほり作品ほどのドタバタ感はない。少女版ハードボイルドだ。

転生の瞬間はこうだ。

「目を開けてみた。 マイホームじゃなかった(ゲームにログインするといつもはマイホームに転送される)。 知らない森の中だった。 装備がクマだった。 両手、両足、着ている服。 先ほどのキャンペーンでもらったクマの装備一式だ。 いきなり装備されているとか。 着てみると意外と肌触りがいい。 手を見ると、クマの手袋はパペットのようだ。 口をパクパクしてみる。 意外と可愛い。」

この軽さが良い。「なんじゃこりゃ~」みたいなの、暑苦しいから要らない。

話は引きこもり少女が転生したが、神から与えられたクマ装備(&現代日本知識)で活躍するというもの。典型である。人気作だったような、、、と思って調べてみたら、累計ランキング73位なので、そこそこ売れているが、やや埋もれている。漫画化、アニメ化には届かない。 「なろう小説」のランキング上位は、異世界転生のお決まりを守りつつ、意外と文章がちゃんとしている、みたいなのが多いけど、違うんです、「なろう」っぽいものが読みたいんです、というときにオススメ。

 

くま クマ 熊 ベアー (PASH!ブックス)

くま クマ 熊 ベアー (PASH!ブックス)

 

 

堤林剣『政治思想史入門』

堤林先生はコンスタンの専門家だが、コンスタンと聞いてピンと来るひとはほぼいないだろう。ルソーを批判したフランスの思想家で、日本語だと岩波文庫で『アドルフ』が唯一手に入れやすいものの、殆どの場合、手に触れる機会もない。アドルフ自体も文学なので、所謂思想についての著作ではない。そして本書では基本的にコンスタンには触れられない(一語だけ出てきた)。

『政治思想史入門』と題されているものの、かなり癖が強い。自分の独自色を打ち出した教科書ともなれば、専門領域を大いにまぶしながら、とも普通は考えるが、そんなことはなく、まず時代設定はむしろルソーまで、である。確かにその後の時代で誰を語るべきか、とは悩ましい問題だが、とは言え、もう少し書けるだろう。でも、しない。では代わりに何を書くかというと、古代ギリシャ古代ローマに割くスペースの大きさと言ったら無い。じゃあソクラテスとかプラトンとか言う有名人とも思いきや、プラトンに辿り着くのですら道が長い。アイキュロスやソフォクレス、トゥキュディデス、ストア派などがこんなに語られるのは珍しいのではないか。延々と馴染みのない時代の思想家出てくるこの感じは、熊野先生の西洋哲学史を彷彿とさせるが、政治思想史だとかなり異様な印象である。

頭の良い学者先生は、たまに入門書を勘違いする。本書を読んで近い印象を抱いたのは、齋藤誠先生の『父が息子に語るマクロ経済学』だった。既存の学問を、ありがちな既存の教科書の作りに流されることなく、強い問題意識を以て、前提から一つ一つ論を組み立てる。それだけの力量があるからこそ出来る所業なのだが、ド素人は「分かる」話がないと知的体力が途中で切れるのだ。読み手の怠慢であることは百も承知なのだが。だから我々ド素人には、かなり本書がしんどいのもまた事実なのだ。非常に知的に誠実(いわゆる教科書的な文体ではなく、たまに話し言葉に近い感じで、本書の著者の実感も、弁明も混じってくる)なのだが、そこが疲れると言えば疲れる。

本書の重要な視角に、what is、what seems 、what mattersの三つがある。分かりやすいのはプラトンで、それが何であるのか、ということと、どのように見えるのか、何が大切に思われるのか、が峻別されるというのは、教科書的な哲学史・思想史でも出てくる話だが、その視角は長ーく援用される。例えばホッブズはwhat isをwhat seemsに取り込んだと捉えられるし(ただ目に見える物理的な現象のみを分析するスタイル)、ロックは彼の神学的パラダイムに基づき、すべてをwhat isに取り込むのである。といった具合に。

入門書ではなく、中級テキストと捉えれば、潤沢な注釈があるので、その次のステップにも進む…には英語・仏語を参照してることも多く、難易度がまだ高いかもしれない。

何にせよ、今後も繰り返し読んでいきたい一冊だし、是非、この先も出れば読みたい。

 

 

政治思想史入門

政治思想史入門

 

 

キャロル・モンパーカー『作曲家たちの風景 楽譜と演奏技法を紐解く』

クラシック音楽をめぐる書籍は決して少なくない。大型書店に行けば楽譜コーナーも含めると広いエリアを占めていることが見て取れる。手に取ってみると、評論本も多く並んでいることが分かり、そのいずれもが、著者による己の独自の感性を活かした雑筆となっているため、さながら読書感想文のようである。全く優秀な小学校時代を過ごしたことだろう。

世の優秀なクラシックリスナーは、残念ながら楽譜が読めないことが多い。もしくは育ちが良いので少しは弾いた経験もあろうが、外国語も達者ながらに楽譜に書いてある文字に目を通したことは無さそうだ。ミケランジェリが何年にどういった演奏をしたといった、演奏家についてのトリヴィアルな知識はあっても、ミケランジェリがどうしてそういう演奏になったのか、というのは楽譜を見ないため分からない(といってもミケランジェリが何を弾いたか、なんてのは弾いた曲の選択肢の少ない人なので、当てずっぽうでも案外正答率は高そう…)。 そもそも「完成度の高い演奏」(同じくミケランジェリに対する形容)とは、いったい何のことを指すのか、未だに不明瞭である(ミスタッチの数のことではなさそうだ)。

別に皆が皆に対して不満という訳ではない。演奏家兼評論家をやっている人もいるし(青柳いづみこが代表格だろうか)、演奏とは別次元の圧倒的独自路線で、目から存在しない鱗までボロボロ剥がしてくれるような人もいる(片山杜秀は途轍もないと思う。一応バイオリンを幼少期にやっていたらしいが…)。ただ、「許」しがたい人もいる、というだけの話だ。(さて、誰のことだろう?)

それと比べて海外の翻訳ものは全般的にクオリティが高いなぁと思う。単純なセレクションバイアスかもしれないが、それだけじゃなく、これも含めて、評論家が実際に演奏をしているという例も多く見られるのが有難い。大部のバッハのフーガの演奏法本はスコダが著作だったりして、演奏家の執筆レベルもまた高い。書き手と弾き手がきちんと相乗効果をもたらしあっている良い環境を感じられる。本書の著者キャロル・モンパーカーは、評論家兼演奏家らしく、実際に演奏したときに、様々な著名ピアニストと相談をしながら考えを固めてきたといった記述も随所に見られる(Youtubeで見た限り、技術自体はそこまで…だが)。またベートーヴェンの生原稿も見ているということで、楽譜を読める強みも持ち合わせる。そうすることで、楽曲の内面に踏み込んだ記述をすることができるのだろう。然して本書では一章ずつ、時代ごとの代表的な作曲家について、楽譜と演奏技法の観点からどう演奏すべきか、という問題が語られる。

個人的に助かるのは、補録としてショパン舟歌」について、7人のピアニストからインタビューをとり、楽譜を用いて特に丁寧に分析されている点。単に自分が弾く際の一助になるというだけで殆どの人には無用だろうが、ピアニストがどう考えてこの一音を解釈しているのか、というのはあまり聞く機会がなく、当たり前だが、人によって認識の多様性があることに気付かされる。自分の演奏を見直せる数少ないチャンスでもある。

 

作曲家たちの風景 ――楽譜と演奏技法を紐解く―― 【CD付】

作曲家たちの風景 ――楽譜と演奏技法を紐解く―― 【CD付】

 

 

オノ・ナツメ『ACCA』

 ついにACCAが終わってしまった。オノ・ナツメ作品に通底する、男キャラのエロス。よく出ていたと思う。あまり武士のほうはその価値を分かってあげられないが(さらい屋とか、、、)、西洋の、鼻の高い男性キャラは何とも言えないのじゃーと涎を垂らしていた。またロッタも可愛い。で、これがマッドハウスで、夏目真悟監督でアニメ化されるということで、随分と期待させられたのだけど、感想としてはアニメについては正直エロスが足りなかった…。顔についている、極端に大きくて横に広がった目が、人間の目になってしまっていたのだ。その意味でアニメで描かれていたのは、人間ジーン・オータスだった。リストランテ・パラディーゾとかもそうなんだけど、生活が描かれていてなお、生活感を微塵も感じさせない非人間的な振る舞いこそが魅力だったんだなーと思わせてくれる。我らの愛するガイジンは、あるいは武士は、人間であってはいけなかったのだ。顔つきも見ると爬虫類に思えてくる。

治安維持を司るACCA局員、ジーン・オータスは、知らぬ間にクーデター計画に巻き込まれていき、どんどん中心に据えられていくのだが、本人は至って無関心で受動的。だから彼が何を考えているか分からないし、そういう点が人間的ではない。タバコを屋上や広場で喫むジーンは、遠くをぼんやりと見ており、目の焦点が合っていない。一方で彼はよくタバコを喫む場面をよく目撃されており、彼は常に「見られる」対象である。彼を中心にシステムが作動しており、そのなかでブラックボックスのジーンは、様々な刺激を受け流す。ロボットだろうか。

タバコはライトモティーフのように象徴的に描かれるが、何かの記号か、と言われると、やや悩ましい。「もらいタバコのジーン」だけあって贈与(マルセル・モース)と返礼のシステムが存在していて、そこに社会が成立する。一方で、視察した先で受け取ったタバコを吸っておらず、贈与のシステムから考えて、ラストのクーデターへの対処が既に予感させられる。即ち、ラストのジーンを見ると、非人間的なジーンというのは、いやいや能動的ではないか、と思えるかもしれない。が、ネタバレにもなるから踏み込まないが、もっと現状打破的な着地点もあったはずで、やっぱりまだ受動的だと思うのだ。トップが阿呆なことに変わりはないではないか。とは言え、多くの漫画で秩序を変革するシーンは少ないので、時代か、メディアの要請なのかもしれない。しかし、タバコを「吸う」という行為に何の意味があるのか、は、、、何だろうね?

 

 

 

現代小説クロニクル 2000~2004

良いシリーズだと思う。講談社文芸文庫は短篇のアンソロジーを定期的に出していて、この現代小説クロニクルは、そのなかの一環として5年区切りで名作短篇が集められている。

5年というスパンはかなり短い。純文学は時代を映し出すことも多いが、5年では時代の区切りとしては短い。とは言え、時代の最先端だったであろう綿矢りさ「インストール」は今の感覚からすればかなり古い。とは言え、5年もいくつか積み重ねれば大きくなる。当たり前だバカ。今だったらこういうのはツイッターかLINEかでやるんだろうけど、若さに価値があるのに、女子高生が大人のフリをしてしまうというのは当時の人間は理解できたのだろうか? 同級生を斜に構えて見て分析してる気分になって、あれとは違うと何かになりたがる高校生、という人物像は、もはや、ありがちすぎて、フィクション性が極まっている。ただし、フィクション的な人間になりたがる若者、というのは、まぁいるか。彼らは○○"ぶる"のだ。しかしチャHと呼べばいいのか、こういうサイバーセックスをするのに対して、随分と物語構造上の理由をつけている。必要だろうか? その意味では金原ひとみ蛇にピアス」の方が、セックスに対するフラットな感覚・描写が現実的(なのに、山田詠美の言う通り「ラストが甘い」。ドラマチックで通俗的なのだ)にも思うが、一方で優等生が援交をするのには理由が必要なのかもしれない。仕方ないのかもしれない。ところでこの二作の、身体性と、サイバーという非対称さは、既に語られていることだろうか?それともこれは非現実的という意味での類似点なのだろうか?

完璧なフィクションにしてしまうなら、堀江敏幸「砂売りが通る」が白眉だ。たったワンシーンを切り出すだけで圧倒的な背景を構築する。「それは、小説のつもりで書いたものではありません。文芸誌「新潮」(新潮社)で三島賞受賞作家特集があったとき、何でもいいですと依頼されて書いた原稿が、編集部の判断で創作欄に載せられた。「エッセイ」の枠でも全く問題無かったんです。文字にしたものには、すべて創作だと考えていますから。ともあれ、それで、僕は「散文」の書き手から「小説的な散文の書き手」として、やや小説寄りに分類された」ものらしい。ここにあるのは物語構造ではない。場面を、主人公が昔と記憶の中で照らし合わせる。が、「時間が、そこでいきなりよじれた」。短篇ならではの凄さだった。

感想はそのくらいです。

 

 

小沢健二『Life』

小沢健二が復活したとのこと。印象として、あの時代に青春を迎えていたひとの象徴の一つであり、時代の寵児であり、逆を返せば、それ以外にとっては無関係なひと。私にとっては無関係のひとだった。でも、鷲崎健のヨルナイト×ヨルナイトで、オザケンという名前がよく話題に上ってきていて、ある回で岡村靖幸の『家庭教師』と比べてどっちが名盤かというボクシング対決(意味が分からない。私も意味が分からない)を組んでいて、邦楽にとってよっぽどの名盤という扱いになっていることを知り、手に取ることとした。  素晴らしかった。

「多幸感」。この詞がこの名盤を評するときのお題目である。では、念仏のように唱えるのだ。タコウカン、タコウカン、タコウカン…。ああ、幸せな気分になってきた。目の前に小沢健二があっぱいに広がる。が、顔が良くないので掻き消そう。立川談志が言っていた。金払いがいいと言ってるやつがケチな場面を見せると悪口を言われるが、はなっからケチですと言っておけばケチなことをしても、あの人はケチだから、で許される。フリッパーズギターが音楽をパクっていようとも、堂々と居直っている分には誰も責めない。パクり?違う、ハッピーなんだ。歌が下手?違う、ハッピーなんだよ。ハッピーだ。

渋谷系という言葉が、あまり今の渋谷を見てもイメージがつかない。ゴミゴミしすぎている。かつては違ったのだろうか。今の感覚的には表参道とかそういう感じがする(近いけど)。まぁ、単に渋谷に海外CDショップがあって、音楽の発信源だったから、渋谷系。ということで、やっぱり街はずっとゴミゴミし続けている。音は無駄がなく、クリーンだ。音幅が狭いからこそ、声質に熱量がなく、音域は不安定。だからこそ、王子。京浜東北線だ。

ピエール瀧が、倖田來未がしていたラブリーのカバーを、渋谷系でなく新宿系だ、と言っていた。どちらも同じだろう。ただ聞いてみると、違いがよく分かる。倖田來未のは、アレンジが現代的な感覚で正解だ。R&Bやらソウルやらをポップにするならこれでいい。小沢健二は音のバランスがおかしい。前に出過ぎだ、ベースもうるさい。よくよく聞くと、いろんな音数が鳴っているのに、演奏がシンプルに聞こえるのはこのせいだ。いいか、これは褒めてるんだ。正解なんてどうだっていいんだ。シンプルに、クリーンに、小沢健二のハッピーに乗っかるのだ。ついに世の中はAメジャーとEメジャーに支配されたのだ。

 

LIFE

LIFE

 

 

遠藤周作『沈黙』

遠藤周作という作家は、文章の巧みな人だなぁというのが第一の感想だった。皆さんご存知の通り、江戸時代に入り、キリスト教は迫害された。宣教師ロドリゴ一行は、信仰に篤い宣教師フェレイラが日本で棄教したと聞き、その真偽を求めて日本は長崎に向かう。

そして宣教師達が苦しむたび、水が付きまとう。日本に辿り着くまでの船旅との苦闘に始まり、梅雨のなかで繰り広げられる日本人による陰湿なまでの棄教の強制、水磔のみならず、簀で巻かれて海に沈められる日本人のキリシタンと、自分から海に沈んでいく宣教師。そしてまるで沼のようだと喩えられる日本のキリスト教における土壌。こうした日本に対する逃れられぬ水のイメージとともに、ロドリゴは結局、日本に引き込まれ、棄教している。こうした一貫したイメージは、作品全体の鬱蒼とした雰囲気をうまく醸成するのに役立っている。そして沈黙する神は、日本に来たのちには、顔の表情すら変わってしまうのである。フェレイラいわく、日本でキリスト教を30年布教して、広まったものはキリスト教的な何かでしかなかった。

そうした西洋と日本のキリスト教観の不整合は、遠藤周作にとっても強い問題意識としてあったようだ。これを逆転させて考えると、どころか、多くの西洋文学においてキリスト教に基づくコスモロジーはあるはずだが、日本人は読み取れていないとも言える。とにかく日本人には難しい概念が多く、例えば愛、というのは我々のイメージとは合致していないだろう。本作でも愛が中心的に語られていたように思う。イエスとユダの置き換えである、ロドリゴとキチジローの関係性では、ずっとロドリゴは裏切り者のキチジローを愛せるか、が主題と言えた。最後の最後で、ロドリゴが表面的に棄教するに至った踏絵でも、ポイントは信徒に対する愛だった。

常に西洋において愛は問題になる。話は逸れるが、ハンナ・アレント学位論文は『アウグスティヌスにおける愛の概念』だった。愛と言えば普通は、隣人愛というキリスト教的な教義が挙げられる(caritas)が、ギリシャ的な愛(eros)というものもあり、その間で揺れ動く愛がアウグスティヌスにはあった。では、本作の踏絵における愛とは、単なる隣人愛だったのだろうか。隣人愛は神への愛による一体化から繋がる発想だろう。しかし、踏絵のシーンにおける信徒は、キリスト教的な何かを信仰する誰かだった。日本の信徒が苦しめられるからロドリゴが棄教する(=「転ぶ」)とは、パウロ的な愛に基づく行為と言えるのだろうか。信仰を持たない私が深く踏み込める領域ではないので、キリスト教解釈論議をするつもりはないが、少なくとも遠藤周作にとっては、日本のキリスト教を「母なるもの」として捉えていたらしい。踏絵をするとき、神が沈黙を破ってロドリゴに、踏むことに対する赦しを与えるわけだが、ここはとにかく物議を醸したらしい。遠藤周作自身も布教意識をもって執筆したからそれもやむを得ないが、しかし、ここにおけるやや歪んだキリスト教像はそうした意識に基づくようだ。池田静香氏は、吉本隆明がこれはキリスト教でなくても<信>のパターンであれば仏教なんでもよい、通俗的な作品だと喝破したとするが、まさしく。しかし、布教パンフレットと読まず、キリスト教特有の作品とも読まず、近代文学として読む分には全く問題はない。全体としてジメジメとした文章が、<信>によるジレンマを沸き立たせ、そして最後の赦しまで至るという流れは、非常に完成度が高いものであり、キリスト教解釈の適否は問題にならないだろう。

 

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)