橋本卓典『捨てられる銀行』

 金融庁が改革を進めているというのは、経済ニュースをある程度追っていれば簡単に入ってくる。Fintechを原因とした銀行不要論も合わさり、まるで銀行とは悪の親玉かのように取り扱われている。

本書は、金融庁改革の先頭に立つ森長官の考えについて、様々な周辺の人間にヒアリングしてまとめた一冊である。率直に言って提灯記事であり、森長官とは高潔な理念で正しい改革へと導いてくれるリーダーであるかのように語られる。本書にはラストに「銀行は、森の発言だけで右往左往するのではなく、深く理解し、その先を読んで動かなければならない」との文言もあり、その扱いはまるで教祖様である。

 非常に簡単にまとめると、最近の銀行はノルマ主義に追われて、地域の再生という本分を忘れて「捨てられる」可能性すらある。これはバブル崩壊後に導入された金融庁検査および金融検査マニュアルによって銀行の貸出が担保主義に陥り、リスクマネーの拠出をしなくなったことに由来する。森長官の改革とは、銀行に顧客企業の成長に資するような行動を取らせることであり、例えば金利を取ってでも衰退する地域金融機関へ貸出をして成長を促そうとする稚内信金や、ノルマを廃した北國銀行、いろいろ工夫をしたきらやか銀行北都銀行を見習い、銀行員はリレーションシップバンキングを意識すべきだ、となる。

 いくつか耳を傾けるべき内容もある。やはり地方銀行の銀行員は、衰退する地方の中で苦しんでいて、何とか貸出先を増やすべく越権(県)をして都会に繰り出したりしているのは確かで、無為な低金利競争を激化させている。金融庁検査以来、ハイリスク先に金を出すことは悪とされ、検査のための「お土産」として債務者区分を落とさせられるため、その矛先が自分に向かないようにとリスクテイクしなくなっている。彼らは残高と件数ばかりを追うようになり、仕事量だけが増え、自分達の首を絞め続ける。

一方でその事業は伸びる、と思って金を貸し出して失敗した例も枚挙に暇がないことは本書では忘れ去られている。一番分かりやすいのは、新潟中央銀行によるバブル期の「乱脈融資」である。「目利きが出来てなかった」というのは簡単だが、ハイリスク先に対して目利きが出来れば貸し倒れる筈がないというのは理想であり、それは理想であるという発想の下で担保主義は産まれたのではなかったのか。バブル期は担保をきちんと確認せずにザル融資をしていたのが問題になったはずだ。こうした問題にはどう対処するつもりなのか。

新潟中央銀行 - Wikipedia

「それでも銀行がコンサルティングできれば問題ないはずだ」というのかもしれないが、まず専門のコンサルタント会社はウルトラCを提示できるスペシャルな存在とでも思っているのだろうか。そのうえで銀行員が片手間で出来るとでも言うのだろうか?? リレーションさえあれば何とかなるのだろうか?? 本書では森長官のそうした思い込みに何のエビデンスも与えてくれず、森長官のセンス(本書にはこんな言葉も出てくる)を信じろ、と唱え続けるだけだ。

とは言え、地銀が画一的サービスで付加価値を提示できていないのも事実だろう。スルガ銀行という地域に貢献しない例外的地銀を森長官が褒め称えたのは個人的には間違っていないと思っている。ヤバい先に高金利で金を貸す銀行は世の中に少ない。あとはノンバンクしかないのだから、超低金利(銀行)と超高金利(ノンバンク)の間隙を埋める存在はもう少しいてもいい。昨今盛り上がるスルガ銀行のかぼちゃ問題は、本質的にはスルガ内部の話に過ぎない。つまり審査を通すために資料を改竄したからと言って、スルガ銀行の経営が揺らいだわけでもなし、経済的にはどうでもよい(法的な問題は別かもしれないが)。金融庁は地銀にリスクマネーへの拠出を訴えるなら、もっと腹を括ればよいのだ。たとえば収入証明ない顧客も受け入れる代わりに金利をより上げるとか、それが許容できていれば単なるスルガの貸し倒れに終始したはずだ。

お勉強が出来たベスト&ブライテストな方々は、相変わらず全てをコントロールしたがるので、銀行が地域にどれだけ貢献したかのチェックをし、地銀はしょうもないアドバルーン案件を作るのだろうけど。そのうえで「御行はどうやって儲ける気なのか」と検査で宣うのだ。理想の崇高さに対し、実践されるときのお粗末さについては本書は目を瞑る。それでは、不毛だ。それでも金融庁を捨てられる日は来ない。

 

捨てられる銀行 (講談社現代新書)

捨てられる銀行 (講談社現代新書)