吉次公介『日米安保体制史』

大体にして日米安保の歴史と言ったとき、その概念は多義的なのである。単純に安保を条約としての文言と捉えるのなら、歴史とはせいぜい成立と、改正以上の情報はありえない。しかし体制史と言うとき、恐らくそこには日米安保だけでなく、それによって成立した様々な条約、制度も内包するのだろう。

では本書は日米安保体制というものをどこに定めたのか、というと本書の議論は、1.在日米軍と沖縄の問題、それから2.同盟における「巻き込まれ」の懸念と自衛隊派遣、に集約されるかと思う。これはかなり意図的で、あとがきにも、通史が世間にあまり存在していないなか、沖縄で育った人間として書きたい、というように書いているように、かなりリベラルな方針で定められている。確かに日米安保についてというと、あまり通史が無い。但し日米関係史は五百頭旗真先生が出しているし、日本外交史で言えば通史は山ほどある。となると日米安保とフォーカスを絞って通史を書くとなると、大部分が在日米軍と沖縄になるのは分からなくもない。

歴史的に俯瞰すると、日米安保にもいくつかのフェーズがある。最初は勿論、成立である。日本の敗戦後、日本の再軍備化に警戒しつつも、冷戦の発生により対東側との役割を期待されながら、片務的で、歪んだ条約は成立した。これはその後、対等な関係とするべく新安保条約と地位協定という形に変容していった。しかしこれを成し遂げる中で、様々な密約を結ばざるを得ず、また在日米軍は沖縄へと移駐することになる。

1960年からは日本は経済的に成長し、「イコール・パートナー」としての役割を求められるようになる。シンプルに極東の安全だけでなく、沖縄の在日米軍ベトナム戦争に活用されるなどの貢献が求められたのだが、日本の成長は一方では在日米軍の引き起こす犠牲を受けて沖縄返還への進んでいくことになる。こうしたジレンマは結果として新たな密約を誕生させることになった。

70年代はデタント、すなわち米ソの融和の時期だった。ニクソンショックで日本の頭越しに国際的な融和が図られると、在日米軍の意義、もっと言うと日米安保体制の意義も問い直されることになる。三木・フォード政権で防衛計画の大綱、福田・カーター政権で78ガイドラインで合同演習が始まるなど、運用面での安保体制化が進んでいったが、同時に米のアジア離れを防ぐために在日米軍思いやり予算も始まったのである。その後レーガン政権で迷走したり、ロンヤスで強化されたりしたのが80年代であった。

大きな転機は冷戦の終結である。湾岸戦争で日本が金しか出さなかったと米から批判を浴びたことはPKO協力法に、朝鮮半島危機は防衛大綱の見直し、97ガイドライン、周辺事態法に繋がっていった。沖縄の米軍基地について普天間の返還の議論になったのもこの頃である。

アメリカの外交戦略が再定義されたのは911のテロである。アメリカがテロとの戦いを始めると、日本もテロ特措法として後方支援を決定し、自衛隊は戦地へと出ていくことになった。その後日本が民主党政権になると対等な同盟を目指してまた沖縄基地問題で迷走を始めたが、安倍政権で自民党復権すると安保関連法という形で改めて対等な形が試みられた。

ここまでが大きな流れである。本書はこれを、最新の研究を踏まえて反映させているという意味でかなり丁寧に情報を拾うことに成功していて、通史としては問題がない。

一方で篠田先生の批判

吉次公介『日米安保体制史』の誤りと岩波新書 : 「平和構築」を専門にする国際政治学者もあるが、少しイデオロギーに急いている感じが否めない。沖縄と巻き込まれを主軸にしたのもそうだし、あるいは研究成果を踏まえてなかったり、変に踏まえているように見える部分があるように思える。例えば78ガイドラインソ連を刺激したという記載には参考文献が記載されてないし、吉田ドクトリンは経済成長の直接の原因でなく沖縄問題から目を逸らさせたから研究上のパラダイムとしては妥当ではないかもと言っているが、不適当な政策だから研究上のパラダイムにならないなどというのはロジックとして成立していない。あるいは在日米軍は重要だから見捨てられる恐怖を強調するのは不適だと、安倍政権の体制史を語るなかで主張しているが、実は因果関係は逆転していて、見捨てられる恐怖から有益なアプローチしたために在日米軍は重要だったのかもしれない。丁寧に情報を詰めているだけに、急に自分の考えを滑り込ませて、一足飛びに議論を収斂させようとしているところが目立つのが気になる。

 

日米安保体制史 (岩波新書)

日米安保体制史 (岩波新書)