押井守『誰も語らなかったジブリを語ろう』

高畑勲が死んで、あぁ素晴らしい演出家が死んだ、勿体ない、惜しい人を、だなんて呟きに一瞬だけ溢れた昨今。あなたたち、高畑作品なんて映画としては火垂るの墓くらいで、他は馬鹿にしてたんじゃないの、というもぞがゆさ(ぽんぽことか、ほーほけきょとか、かぐや姫とか…)はあるが、とはいえ人が死ねば美化されるのは世の常。人の死を惜しむのには、高畑勲の作家性などは必要ない。

本書は、日本ではほぼ見かけない、ジブリ批判・宮崎駿批判をふんだんに盛り込んだ押井節炸裂の対談本。普通の映画ライター(渡辺麻紀)がジブリ宮崎駿を普通に批判したんじゃ「何様だ」と怒られるところを、日本でも数少ない、宮崎駿を叩いても許される押井守を隠れ蓑にしたという英断の下で成立した企画とも言える。押井守が許されるのは、その天衣無縫(?)な放言のスタイルと、ジブリ関係者との距離感の近さ故だろう。なんたって押井守の短編映画には、実写で鈴木俊夫を、女性スナイパーが飯を食いながら暗殺するだけの作品すらある。宮崎駿高畑勲鈴木俊夫というトライアドと怒鳴り合いして、それでも付き合える訳の分からない人間は語るに相応しいとも思える(恫喝を得意とする三人の秘密警察とすら例えられている)。

 作品論は三章立てで、「矛盾を抱えた天才 宮崎駿」「リアリズムの鬼 高畑勲」「ジブリ第三の監督」とあり、一作ずつ時代ごとに語りは進むが中心は宮崎駿論。サブタイトル通り、宮崎駿という人物の矛盾、そして天才性が大いに説明される。ジブリには既に、思想・記号論に基づく精緻な作品分析の著作が巷間に揃っているが、こちらはもっと下世話であり、宮崎駿にはロジックがない、没論理的な人間で、但し鋭い勘がある。こういうシーンが描きたいをとてつもない表現力で描く天才と評し、好きな女のタイプは完全無欠で賢くて健気で真っ直ぐ。トイレにすら行かない(トイレに行くキキは鈴木俊夫のキャラクターである)。自然が好きで文明批判をするのに、古い戦闘機が好きで、この矛盾は思想的にはまとめられてないし、価値観の葛藤が作中に全くないけど、それを乗り越えるアニメーターとしての描写力がある(食事・水・自然は絶品。あとは三途の川)。作品構造が弱く、妄想をひたすら詰め込んでも、最後は自己犠牲でドラマを無理矢理チャンチャンと締めるから劇映画としては成立する(宮崎駿デヴィッド・リンチにならないのはココが原因だとか)。社会的な思想の弱さは徐々に力をつけたテーマのない男・鈴木俊夫が箔付けして日本全土を巻き込んでしまった。押井守は何度となくこうしたこと語ってきているが、大いに作品単位でそうしたことを延々と語り続ける。つまらないわけがない。

 逆に宮崎駿論以外はやや蛇足。演出家として天才だった高畑勲は、ジブリではほぼろくな仕事をしておらず、火垂るは辛うじて冷徹な高畑の圧倒的なリアリズムで評価しうるが、あとは「クソインテリ」の理想・妄想・農本主義だとこき下ろす。アニメーションとしての表現の実験(おもひでのキャラクターは頬の筋肉が動く)をするが、作品としては面白くならない。じゃりン子チエのホームドラマは良かったらしいが、ほーほけきょは無意味な実験をして失敗。まぁ皆知っていることではある。高畑は葛藤が下手で、左翼・クソインテリの理想主義ばかりで、勉強家とは言われているが、リアリズムについてはあまり語られていない気がする。

第三の監督論は、耳すまの近藤さんだけは宮崎駿の呪縛から逃れているが、あとは劣化コピーで、吾朗にはフェティッシュが足りない。但し米林(麻呂)さんだけは二作目のマーニーでウジウジとした女の子を描いたという時点でやや評価できる(でも鈴木俊夫に、あらゆる原作を日本を舞台に改変させられることに変わりはないのだが)。

でもここまでこき下ろした押井守だが、宮崎駿への愛情は未だにある。ここが上手い。キャラクターの葛藤を書けない宮崎駿の大傑作は、短編である「めいとこねこバス」だとか。俄然見てみたい。