永井均『ウィトゲンシュタイン入門』

ウィトゲンシュタインに入門してみた。

我らが(?)永井均先生による、入門本。哲学徒ではないので解釈の是非を問うつもりはないが、あの永井均の仕事、として考えるとオーソドックスな入門書になってるのではないかと思う。

冒頭の序章こそ、永井均個人が幼少の頃から感じていた疑問、「私はなぜ、今ここにこうして存在しているのか」という問いに対して、ウィトゲンシュタイン独我論こそが自分と同じ悩みにぶち当たってくれたという共感から始まる。何とも客観性に乏しい記載であり、そして難解。しかし一方でウィトゲンシュタインの取り組んだ独我論が一貫したイシューではないという説明から、後々の内容を要約する段になると、引き続き難解だが真っ当な説明が始まる。

一章からはもっと穏当である。ウィトゲンシュタインの生い立ちから、その頃取り組んでいたテーマが平行して語られる。

前期ウィトゲンシュタインとは最も華々しい時期である。つまり、『論理哲学論考』を著し、かの有名な「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」というアレが飛び出した。これはどういう意味なのだろうか、それを説明するのが最初のテーマである。

『論考』のウィトゲンシュタインによれば、すべての命題は、事態の写像である要素命題へと分析できる。そしてこの構成は真理関数に基づくわけだが、これはトートロジーである。すなわち論理は、外部からそれについて語るメタ理論を持ちえないのであり、それゆえに論理は先験的、つまり経験的な事実に先立ち世界と言語の形式を示していなければならない。ここでルイスキャロルの寓話「亀がアキレスに語ったこと」が引かれるが、それは「Aと、AならばB、からBを導くことができる」という前件肯定式から、Bを受け入れなければならないかと言うと、そこには、「Aでありかつ「AならばB」であるならばBである」というPの論理法則がないと完成しない、結局果てしない問答になってしまう、というものだ。こうして、『論考』の諸命題は世界を正しく見ることを助けるための、一時的な方便でしかなくなり、自然科学の命題以外には語りえぬこととなるのだ(『論考』を除いて)。また、語りえぬものとは、こうした世界の形式そのものであるがゆえに語りえぬ先験的なもの、とは別に、世界の外にあるがゆえに語りえぬ超越論的なもの、がある(トランスツェンデンタール)。そして、「言語」という先験的なものと、「私」という超越論的なものが、「私の言語の限界は私の世界の限界を意味する」という形で統一される。さすれば主体は世界に属さなくなる。こうして独我論は設定された。

そこからウィトゲンシュタインの人生の描写とともに中期が始まる。論理を否定し、文法へと変化していった時期である。二メートルである、ゆえに三メートルではない、といった推論を鑑みた際、要素命題は独立ではありえない。相互に関係しあう。一方で、黒いものについて、それによって騒がしいことを語ることは、その語り方において空間を取り違えている。命題において、意味を知っていることは検証方法を知っていることであるという立場を取ると、文法規則の提示こそが検証条件の指定に、そして意味へと繋がっていく。逆に、検証の方法が違えば命題も異なる。検証は命題を、それを検証する現象記述命題へと内的に関係づけられ、こうした記述は、文法規則としてのみ立てられるのだ。こうして意味とは何か、ものごとの本質とは何か、などと考えても、全てが文法の内部に留まるしかなくなるのである。全ては文法である、に対するあらゆる反論すらも文法でしかありえない。では現象はどのように捉えられるかというと、もはや現象は検証主義的である以上は放棄され、代わりに規準(目印)にとって代わられることになった。たとえば雨が降っているという視覚印象があったとして、これは雨が降っていることの規準になる。あるいは志向もまた言語によって可能たらしめられる。しかし、では何故語の意味は、それでありうるのか。どうして皆が同じように振る舞いうるのか。そこには規則ではなく、慣習(プラクティス)に従うという言語ゲームへの萌芽がある。

そして、後期ウィトゲンシュタイン言語ゲームについて語る。言語とそれが織り込まれる諸活動の総体が言語ゲームと名付けられるが、例えば、「赤いリンゴ五個」とある紙片を持って果物屋に行ったらリンゴ五個が買える。これはよく考えたら不思議なことで、言語の解釈もなくリンゴを買えるのは、そのような慣習を生きているから、であり、生き方という語られることのない生活形式のなかに言語ゲームはある。言葉の意味とは、心の中にはなく、生活の形式に他ならない。そこに本質的な特徴など存在しない。そしてルールこそがゲームのプレイを、ではなく、無根拠なゲームこそがこの規則を存立たらしめる。チェスのゲームとルールの関係を考えるとよい。しかし無根拠に適用される規則とは、それについての規則があっても、それについての規則が、そしてまた規則が…と行為に辿り着かない。そうして最後には実例による訓練と慣習のみが残る。偶然とみなされるものごとが、歴史の審判を経て正しさは決定される。そうして規則に従うこととは、実践に他ならない。それに従うと信じることは信じるという規則を必要とする以上、私的に従うということではありえない。一方で言語とはことなり、感覚は他人の感覚を知ることができない以上、文法的に私的となりうる。

最後に、意味とは何か。言語におけるその語の使用である。そして意味盲とは、その語だけを与えられたときに複数の意味を見ることができない人たちのことである。あるいは相貌盲人という人はウサギ・アヒルの反転図形を、反転体験を起こせない人たちのことである。この人たちはいずれも、内的関係(本質)を把握することができない、「本質直観」に問題を抱える。しかしこうした意味体験は、言語を使用する際には重要性を持たない。通常はこうした「夢」を見ずに語られる。意味盲人とはすなわち、どんな場合にも夢を見ずに語る人のことと言える。

ウィトゲンシュタインは今際の際に、それでも信じることについての意義を語った。たとえば神を信じることには、行為における差異を生み出す。では、差異がない場合には? 信じても疑ってもない場合には? これは不可思議な話である。

読後感は面白かった。永井均の筆致は、必ずしも全面的にウィトゲンシュタインに平伏しているわけではないスタンスで、しかし今こうして改めて振り替えると、同じところをグルグル回っているような、進んでいるような、動いてしかいないような、そしてウィトゲンシュタインが自分だけを特別な位置にいることに対する批判的な気持ちをも抱いた。

 

ウィトゲンシュタイン入門 (ちくま新書)

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