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遠藤周作『沈黙』

遠藤周作という作家は、文章の巧みな人だなぁというのが第一の感想だった。皆さんご存知の通り、江戸時代に入り、キリスト教は迫害された。宣教師ロドリゴ一行は、信仰に篤い宣教師フェレイラが日本で棄教したと聞き、その真偽を求めて日本は長崎に向かう。

そして宣教師達が苦しむたび、水が付きまとう。日本に辿り着くまでの船旅との苦闘に始まり、梅雨のなかで繰り広げられる日本人による陰湿なまでの棄教の強制、水磔のみならず、簀で巻かれて海に沈められる日本人のキリシタンと、自分から海に沈んでいく宣教師。そしてまるで沼のようだと喩えられる日本のキリスト教における土壌。こうした日本に対する逃れられぬ水のイメージとともに、ロドリゴは結局、日本に引き込まれ、棄教している。こうした一貫したイメージは、作品全体の鬱蒼とした雰囲気をうまく醸成するのに役立っている。そして沈黙する神は、日本に来たのちには、顔の表情すら変わってしまうのである。フェレイラいわく、日本でキリスト教を30年布教して、広まったものはキリスト教的な何かでしかなかった。

そうした西洋と日本のキリスト教観の不整合は、遠藤周作にとっても強い問題意識としてあったようだ。これを逆転させて考えると、どころか、多くの西洋文学においてキリスト教に基づくコスモロジーはあるはずだが、日本人は読み取れていないとも言える。とにかく日本人には難しい概念が多く、例えば愛、というのは我々のイメージとは合致していないだろう。本作でも愛が中心的に語られていたように思う。イエスとユダの置き換えである、ロドリゴとキチジローの関係性では、ずっとロドリゴは裏切り者のキチジローを愛せるか、が主題と言えた。最後の最後で、ロドリゴが表面的に棄教するに至った踏絵でも、ポイントは信徒に対する愛だった。

常に西洋において愛は問題になる。話は逸れるが、ハンナ・アレント学位論文は『アウグスティヌスにおける愛の概念』だった。愛と言えば普通は、隣人愛というキリスト教的な教義が挙げられる(caritas)が、ギリシャ的な愛(eros)というものもあり、その間で揺れ動く愛がアウグスティヌスにはあった。では、本作の踏絵における愛とは、単なる隣人愛だったのだろうか。隣人愛は神への愛による一体化から繋がる発想だろう。しかし、踏絵のシーンにおける信徒は、キリスト教的な何かを信仰する誰かだった。日本の信徒が苦しめられるからロドリゴが棄教する(=「転ぶ」)とは、パウロ的な愛に基づく行為と言えるのだろうか。信仰を持たない私が深く踏み込める領域ではないので、キリスト教解釈論議をするつもりはないが、少なくとも遠藤周作にとっては、日本のキリスト教を「母なるもの」として捉えていたらしい。踏絵をするとき、神が沈黙を破ってロドリゴに、踏むことに対する赦しを与えるわけだが、ここはとにかく物議を醸したらしい。遠藤周作自身も布教意識をもって執筆したからそれもやむを得ないが、しかし、ここにおけるやや歪んだキリスト教像はそうした意識に基づくようだ。池田静香氏は、吉本隆明がこれはキリスト教でなくても<信>のパターンであれば仏教なんでもよい、通俗的な作品だと喝破したとするが、まさしく。しかし、布教パンフレットと読まず、キリスト教特有の作品とも読まず、近代文学として読む分には全く問題はない。全体としてジメジメとした文章が、<信>によるジレンマを沸き立たせ、そして最後の赦しまで至るという流れは、非常に完成度が高いものであり、キリスト教解釈の適否は問題にならないだろう。

 

沈黙 (新潮文庫)

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