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西田谷洋『ファンタジーのイデオロギー 現代日本アニメ研究』

新海誠が流行っている内に本書は紹介しておきたい。正確には、新海誠がというよりも、「君の名は」が流行っているというのが適切だろうが、それでも新海誠作品が社会現象にまでなるというのは驚きだった。秒速5センチメートルは、明らかに普段アニメを見ない人も見ていて、一般層には一番ヒットしやすいのでは、とは思ってはいたが、まさかここまでとは。ここ数年、ポスト宮崎駿論争起こっていたが、細田守は先細り、庵野はオタクビジネスの呪縛から逃れられず、というなかで、新海誠しか押し出せる人はいないので、格好の材料になっている気がしないでもない(なお、同じ年に片渕須直の『この世界の片隅に』がヒットしているが、こちらは同じくジブリ高畑勲に重ねる向きが多いが、面白い偶然だ)。

本書は、近代日本文学を研究領域とする著者により、全10章で構成されたアニメ分析である。様々な作品が分析対象となるが、その際の分析枠組となるのはポストモダンの哲学書であったりする。例えばテロリズムを描いたCANAAN閃光のハサウェイを通じて、グローバリズムに基づく大きな物語に対比された、異質性が表象されているとし、自発的に主体化されない女性が示されているとする。またBLACK LAGOONを通じて、テロの連鎖を忘却せずに記憶することが肝要だと主張する。このあたりは、作品のテクストへの寄り添いが不足して、単なるポモをなぞっただけにも見える。

一方で、多様な読みを明らかに促す「輪るピングドラム」の分析は、作品自体が作中に分かりやすい「読み」を配置してくれてるだけあって、うまく解きほぐしてくれる。いかなるストーリー展開が、最終的に救済へと繋がっていくのか。その過程の描写は、何のメタファーになっているのか、が示される。ここで対置される作品は、「銀河鉄道の夜」や、村上春樹「かえるくん、東京を救う」である。ただし、作中で出てくるあからさまな「ヒント」を使ってそのまま説明するので、鬼才・幾原邦彦の掌の上で踊ってるだけにも見える。ピンドラ論の締めは以下である。

新自由主義体制下の主体は、根源的な体制変換へと向かう創造力を奪われ、排他的な共同体を維持する消費に隷属しているのである。こうして『輪るピングドラム』は家族愛とテロリズムを消費するテクストとして現動化する」。凡庸と言えば凡庸ではないか。

 

さて新海誠論は、「雲の向こう、約束の場所」がテーマである。まずは議論をまとめて見よう。著者は、本作品がドゥルーズ的な装置で読みうるテクストであると主張する。

1.同一性と差異

 浩紀が「告白をしないしされてもいない」ことから、「自らの思いと対象が存在するだけで充足している」人物であり、自己内部で世界が反復しているのだ、と言う。また約束の場所について、コードの入力として、約束を守る/守らないという条件選択の反復に過ぎないことから、恒常的に反復される世界であるとする一方、時間が流れることで差異が存在する。浩紀のモノローグ時点では、約束の場所は喪失しているのであり、差異を想起させるのが佐由理の予知夢であった。

2.塔の機能と潜在性

 塔は、周囲の空間を現実世界とは異なる平行世界の空間と置換する機能を持つ。睡眠症に陥る佐由理は、覚醒すると伝えなければならない何かを喪失したと感じるが、覚醒前と後では、「記憶は非連続的で、喪失の回復という定まった具現化の過程よりは潜在性の生成変化的な表れとして捉えるべき」としている。過去の想いは、「記憶より忘却に属するものとして潜在的なものを形成する」。

3.夢・幻という無根拠性

 浩紀は佐由理の夢と接続し、佐由里を救うには塔に連れていくしかないと判断する。ここで病の回復というミクロな枠組みと、国家的主権の確立というマクロな枠組み、双方の「損傷の回復」が焦点になる。浩紀は「不可能なものを肯定し信じている。」ことから、ドゥルーズの『シネマ』に照らして、浩紀の行動は「新しいものが生成する潜在性の論理に対応している」となる。

4.機械の場所と外の思考

 意思の固さと飛躍する行動から、浩紀は「機械の隠喩で捉えられ」る。ドゥルーズは機械の特徴を、「①「下界設定=マイナー化」と②再帰性の機能を備えた物理学的因果性」としている。①は塔をつくった祖父の行為は個人目的の横領に、②は世界の破滅と少女の救出が接続することに該当する。

 そして浩紀はその後、佐由理を幻視し続け、潜在し続ける。佐由理にとっては塔=機械からの干渉により、浩紀は関係ない人間として意識される。そもそも「わたし、何かあなたに言わなくちゃ。とても大切な、消えちゃった。」というフレーズが、浩紀が「佐由里を他者として「見ること」を受け入れさせられる物語」だったのである。

5.新海テクスト様式と潜在性

 新海様式では、「恋愛の発生とその実現の過程がなく、恋の相手は恋する主体の外部ではなく内部として描かれる」。「ヒロインの恋敵の女性の存在感は希薄であり、主人公のヒロインへの想いを揺るがなさい」。「自己の想いだけが顕在化し自己の論理の正当性が示される」。「コミュニケーションの不可能性は、恋の相手との接続が潜在的であることと相まって、二人が現実には結ばれない帰結を生じさせる」。

 本作品では、佐由理は救出という行為を通じて浩紀にとっての「他者性を抑圧されてしまう」。結果、潜在性は境界の崩壊をもたらし、「個人の暴力性が暴露され、眠る女=他者への応答=責任が浮上する」。塔の破壊は責任が生じることから、「二人が結ばれることは困難であり、佐由理の記憶の忘却は事態に対する責任=応答のパフォーマンス」として機能する。潜在性の顕在化による想いの破綻となる。

 

 以上。

ドゥルーズ解釈の適切さについては、私の主眼にないのでさておきたい。ドゥルーズの分析手法を用いて、本作品をまとめてみました、というのがよく見て取れる。やや強引な部分も散見され(同一性の説明や、浩紀=機械の説明など、うーん…)、ストーリーをただなぞっただけの部分もちらほら。ドゥルーズを使ったことの効果は再度検証されるべきだろう。一番思うのは、せっかくアニメーション評論をやっているのに、ストーリーとその記号に終始し、映像の分析、ショットの分析が不在になってしまっている。世のアニメ評論ブロガーに比べて、分析対象がアニメであることへの意識がやや…。

但し、最後の結論として、 潜在性の顕在化と他者性の抑圧の暴露から結ばれないことを説明した部分などはナルホドと。

こういう分析手法を用いながら、『君の名は』を振り返るというのも一つ。

 

ファンタジーのイデオロギー 現代日本アニメ研究 (未発選書20)