君塚直隆『立憲君主制の現在:日本人は「象徴天皇」を維持できるか』

今年のサントリー学芸賞

天皇制のあり方についてホットなこの時期にタイムリーに出た、イギリス外交の専門家であり、日本随一の英国王室マニアとして名高い君塚先生による君主制本である。

自分はこうした事前情報があったので、そうだろうなと思ったことだが、知らない人は違和感を覚えることとして、本書は半分が英国王室についての話である。1000年前に遡って成り立ちから、近年の王室のあり方の変容について概観してくれるので非常に勉強にはなるし、紙幅が厚くなるのは当然だけど、タイトルからするとやや肩透かし感はある。

その後に軽く、北欧、ベネルクス、アジア(東南アジア、中東)の君主制が持つ多様性について触れた後、ラストで簡単に日本の皇室について感想が述べられる。維持できるのか、それはよく分からない。ただあり方が一様ではなく、それぞれの国毎の一番綺麗な着地を模索すること、が求められることは分かる。 

英国のあり方は参考になる。本書においては一貫してレーヴェンシュタインによる整理を基に語られるが、なかなかこの民主主義下においてどう撞着させるか、は悩ましい。君主制は絶対的な権力のように思われるが、国民や議会を無視して進めた場合には首がすげ替えられることだってありうるので、常にそちらも伺いつつ歴史上動いてきたし、民主主義が強くなった現代では、ころころ変わる政局に対して不変の存在として、外交や内政において政局に惑わされない存在として意義を維持している。じゃあ役に立つし残してもいいよね、と思えても、コストとリターンからメリットが少なくなれば批判が高まる。コモンウェルスだって弱くなる。この微妙なバランスの上に成り立っている感じは、日本と近いように感じる。

日本においては、最近大嘗祭について俄に盛り上がった。ダイアナ事件の頃、英国王室でウィンザー城が燃え、修復の話が出たとき、税金を使えず、自分達で賄ったというエピソードがある。王室への支持が下がってるときにはそういうこともありうるものだ。「ありがたい存在だから金をいくらでも使ってよい」というのが年々難しくなってきているのであり、日本の皇室サイドも時代の空気を見て、費用にセンシティブになるのも妥当な反応だろう。

必ずしも同じというわけではないが、現代という時代に合わせてどこまで柔軟であるべきなのか、について考える視座になる一冊であった。

 

立憲君主制の現在: 日本人は「象徴天皇」を維持できるか (新潮選書)

立憲君主制の現在: 日本人は「象徴天皇」を維持できるか (新潮選書)

 

 

押井守「シネマの神は細部に宿る」

つい最近出たジブリについて語った本と同じ形式だが、今度は押井守が偏愛するものが映画においてどう描かれたのか、を対談している。

映画について語らせたとき、この人の本領は発揮される。本当はあの呪術みたいな、トーンの高低もなく、ただ止めどなく出てくる情報と解釈に圧倒されるには、その肉声を聞いた方が良い。10年ほど前だったか、押井守のシネマ・シネマというラジオ番組が文化放送であり、アニラジ枠で流されていた。あちらは映画制作について毎回テーマを定めながら語るのだが、抜群に面白くて、聞き返すたびに惹き付けられるのだ(アシスタントが広橋涼で、初めてその情報を入手したとき、さすが広橋涼は懐が深いなどと思ったのだが、単に押井守の録音を流す前に要らんトークをするだけだった)。

中身は、様々なテーマについて、どの映画がそのテーマの描写が良かった・いまいちだった、ということを語るという内容で、映画そのものの本筋を知りたい人には向かない。

テーマは、動物、ファッション、ごはん、モンスター、携行武器、兵器、女優、男優、だが、冒頭が十八番の犬で、「バセットが出ている映画はもれなく観ているから」「そういう情報ルートがちゃんとある」から始まるのがまず面白い。そんなルートがこの世に存在するとは知らなかった。

押井守が記憶にあるけどタイトルとかキャスト、製作陣の名前が分からない部分を、映画ライターである渡辺麻紀が補助して対談が進む。映画の細部への着目が独特で、2001年宇宙の旅を「キューブリックの狙いは明らか。これは紛れもなく"食べる"映画です」という解釈・指摘もあれば、映画で出てくる銃がTPOに合ってることが大事だと歴史的なコンテクストから説明するし、戦車ではニセモノ戦車かどうかを足回りから判断して批判するし、でも椿三十郎の逆手斬りを褒めるときには「本当に逆手斬りのほうがいいのかどうか知らないけど」と言いながら絶賛する。解釈・歴史的な正しさ・演出の三パターンからの押井守の視点を楽しむ対談本であり、判断基準はバラバラな感じはあるけど、それはそれで、好き好きで。

シネマの神は細部に宿る

シネマの神は細部に宿る

 

 

古川勝久『北朝鮮 核の資金源「国連捜査」秘録』

もはや感想書く時期を逸したようにも思うが、むしろ、こういう北朝鮮問題が穏やかなタイミングであるからこそ、忘れてはいけない問題とも言える。

タイトル的に怪しげな本かと思いきや、国際政治学者界隈で評判が良い。それもそのはずで、著者の古川先生の、国連安全保障理事会北朝鮮制裁委員会・専門家パネルの経験が落とし込まれた至極全うな書籍、ルポルタージュである。

我々は2006年以来長らく、北朝鮮経済制裁をしてきた。こんなに厳しい制裁をしているのだからすぐに音を上げてもおかしくないのに、諦めるどころか、どんどん制裁を厳しくしてもそれでもやっていけている。また軍備は発展する一方である。なぜか。そこには様々な抜け穴があり、抜け穴に対して国連は無力であることも多々あるせいで、彼らはうまく生き永らえているのだ。

例えばご存知、中露のサポート、あるいは見て見ぬ振りがある。積極的に制裁違反をするのでなく、制裁はすべきという姿勢を見せつつ漠とした対応しか取らない。シリアが親露であるときには、中露はシリア向けの物資を擁護する。国連が認めない台湾を介してグローバル企業の振りをする。シリアが親露であるときには、中露はシリア向けの物資を擁護する。中東・アフリカはサービス込みでグローバル企業の顔をした北朝鮮民間企業から武器を買い、北朝鮮技術者は中露のみならず、東欧からも情報をとって技術の発展を図る。

こちらとて手をこまねいている訳ではない。世界中の企業に情報を取りに行き、押収品が軍事転用されているものか確認するためにミサイルの解体までしたという。しかしそれでも、全てが摘発されるわけではない。怪しいと解っていても、各国政府は、それは中露だけでなく、ヨーロッパも、あるいは北朝鮮問題に喫緊で対応しなくてはならないはずの日本ですら、協力的ではないのだ。面子の問題、多忙による後回し、法整備が間に合わず、官僚の形式主義・先例踏襲主義によってむざむざ見過ごしたという例もある。本書にはない話だが、数ヵ月前に、日本の信金がマネロンで検査をくらっており、北朝鮮企業への送金もあったもいうからお察しである。

制裁を実施した、でドヤった結果、でもやっぱり制裁には実効性がありませんでしたとなると、残るは物理的な制裁しか無くなる。なので戦争について語るには軍事を知らなくてはいけない、というのと同じくらい、制裁の実効性を知ることは今の時代大事な問題だと思うのだが、いかんせん制裁をかけている、という事実だけでそれ以上のインセンティブが政治家には不足しており、そのせいか興味を持つ向きが少ない。

北朝鮮 核の資金源:「国連捜査」秘録

北朝鮮 核の資金源:「国連捜査」秘録

 

 

池内恵『【中東大混迷を解く】シーア派とスンニ派』

池内恵先生によるブックレット企画。企画から池内先生が積極的に関与しているらしく、二年前に同じく新潮選書から出た中東大混迷を解くシリーズの二冊目になる。その前にも新潮選書では出してるので実質的には三冊目である。

正直言うと、あまり触れたくない。池内先生はネット内で方々にゲリラ戦を仕掛ける怖さもあるし、そのうえ、中東研究に土地勘のない自分からすると、研究者内の党派対立がどうもキナ臭く感じるので。どっちがどう正しいかとか、どこが地雷とか分からないのだ。

ともあれ、本書のエッセンス自体は非常にありがたくて、イスラムについて、巷間言われているような俗説を打破し整理し直すことが試みられている。とくにシーア派スンニ派の対立項というのが、いかに宗派対立というよりも政治的対立に基づく概念であるかというのを、シーア派スンニ派がどのようにして生まれたのかというのを、番頭さんと愛人の争いに異様な戯画化してみる等、混迷する中東の理解を分かりやすくしていることは間違いない。

シーア派誕生の歴史、それがイラン革命を受けてシーア派が反西洋としてイランに勃興したこ

と、これがイラク戦争とともに宗派対立として中東に広がったこと、またそのなかでレバノンという国が、分立するイスラム(スンニ派シーア派)とキリスト教マロン派のなかでどう尽力し、どう失敗したのか、そしてその後起こったアラブの春以降の近年の流れ、という内容で値段は1,000円と安い。コスパは最高である。

ただブックレット形式の性で、参考文献がついていない。代わりに一章で皆は色々なことを誤解している、最新の研究としてこんなものが出たりしている(けど中身にはそこまで踏み込まない)、と教えてくれる。それは良いが前置きが長く、それなら参考文献か脚注が欲しい(最近の選書の一番悪いところだと思う)。ニコ生の国際政治chを購読した方が面白いので、本としてはもう少し情報が欲しいなぁとも思わなくはない。

 

【中東大混迷を解く】 シーア派とスンニ派 (新潮選書)

【中東大混迷を解く】 シーア派とスンニ派 (新潮選書)

 

 

藤枝雅『飴色紅茶館歓談』

Kindleで買ったはいいけど、容量の都合上、泣く泣く削除を繰り返していて、供養のために記録を残しておこうシリーズパート2。

 

あまり読み込んでないので感想もないのだが、これは百合姫に連載されていた作品で、紅茶の喫茶店を営む芹穂と、そんな彼女に恋心を抱きながら働くさらさの百合作品。

最初の短編が出たのが2003年らしく、連載開始は百合姫vol.6(まだ独立増刊する2008年、vol.11よりも前の、季刊誌時代)。キャラクターの造形が、2000年代前半のギャルゲー的である(TH2の幼馴染みキャラを喩えに出しているのを見たことがある)。概ね穏やかな雰囲気で、事件も、修学旅行で一時的に離れるとかその程度のもの。ギャルゲーの日常パートくらいの気持ちで読めた。で、舞台装置たる店は、宝くじで当てた金で、というのだから、無理矢理非現実的な理想郷を奥行き無く作る感じは、ドッカーンで死んで異世界に行ってハーレム作るのと大差ないなぁなんて思ったり。そういう唐突さは随所に見られて、その修学旅行回は「五十年後も隣にいてね」という、聞いた側は告白に、言った側は良い人間関係としての投げ掛けをして話は終わるのだが、ここにはそれへの返答も書かれない。たぶんこのあとを書くとすると、誤解の解消だとか百合の否定にならざるを得ないが、だからこそ余計なことは書かれない。綺麗な世界である。

ただ恥ずかしながら全二巻なのに私は二巻目を買ってない。なので感想はここまでで。

 

飴色紅茶館歓談: 1 (百合姫コミックス)

飴色紅茶館歓談: 1 (百合姫コミックス)

 

 

久野遥子『甘木唯子のツノと愛』

Kindleで買ったはいいけど、容量の都合上、泣く泣く削除を繰り返していて、供養のために記録を残しておこうシリーズ第一段。

作者の久野遥子というひとは、岩井俊二の「ロトスコープアニメーションディレクター」を務めたのが名を売った仕事らしく、いわゆるアニメーターというよりもアニメーション作家と、漫画家を生業としている。これが漫画として抜群に面白いですか、と言われると、よく分からない。これは短編集であるが、いずれの作品も同じ作者なので空気感が似ているといえば当然で、唐突な場面展開の早さとかの映画的という感じもありつつ、基本のコンセプトはいずれも、愛し合う、あるいは信頼し合う二人が出てくるのだけど、そこには青春時代における何らかの共犯関係が描かれているところが共通している。それは表題作の、ツノと愛というタイトルが示していて、ツノが生えている妹と、居なくなった母に悪態をつく兄、そういう兄を分かってあげる妹、実はツノという突起とは兄の男根なのかもしれないとか、ユニコーンを象徴させていて、巧いというべきか、でもたくさんの要素を詰め込むがために場面が多すぎて、話の流れがぶつ切りだと思うか、悩むべきところである。たとえばツノが消える場面のうちで、妹が帽子を飛ばされるシーンについて、箒を持っていて掃除のためにそこにいるんだろうと推察されるんだけど、それを前置きなく一コマだけで場面展開したことにする。これが空気感を出していると言えば出している。

甘木唯子のツノと愛 (ビームコミックス)

甘木唯子のツノと愛 (ビームコミックス)

 

 

加藤節『ジョン・ロック 神と人間との間』

加藤節という人は成蹊大で教えていたことから安倍晋三に指導し、彼は授業に出てなかったのに単位を取って卒業したと暴露して一躍政権批判側で祭り上げられることになったが、政治思想の業界ではジョン・ロック研究者として著名な人物である。ジョン・ロックと言えば多くの人が中学か高校における社会の授業で ホッブズとの差異として抵抗権を主張したことは知っているだろうから、その研究者として筋としては一貫しているようにも思える。

ところでジョン・ロック研究と言えば加藤先生がというより、加藤先生と旧知であるケンブリッジジョン・ダンこそが画期的な研究者として知られ、加藤先生はジョン・ダンのロック研究を翻訳している。ジョン・ダンについては以下に詳しい。

http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/BA88454709-00000009-0183.pdf%3Ffile_id%3D118562&ved=2ahUKEwijj4qMs7bcAhWHIIgKHfTPC4QQFjACegQIBxAB&usg=AOvVaw34gw0VgmxIXIH8dhkTxofv

 

本書はジョン・ダンの解釈を踏まえて、加藤先生がロックの生涯と思想遍歴をまとめた新書である。我々が社会の授業で習ったことと何が一番違うかというと、本書副題の通り、ロックのスタンスは常に「神と人間の間」における在り方について悩むという点にあろう。

常識的な理解として、ロックとは近代的な、脱宗教化を果たした思想家であり、社会契約説を推し進めた人物として語る、丸山眞男以来の解釈がある。これ自体は間違いではなく、『統治二論』は王党派トーリーに対し、議会派ウイッグからの批判として書かれたものだが、ここにおいて論敵となったフィルマーは、「絶対王政」と「人間は自由に生まれついていないこと」という二点を、アダムの子孫たる人間の社会における家父長権を擁護する立場から導きだしている。これに対しロックは、人間の生来的な自由を主張し、政治と社会を人類に取り戻した。フィルマー的な不自由な状態からは脱することが出来ている。

但しその取り戻し方は結局、宗教的であった。

ロックは敬虔なキリスト教徒・ピューリタンであった。そのため彼の思想はキリスト教がその基礎となっており、例えば『統治二論』において我々がよく知る「プロパティ」は(所有権などとも訳される)「生命・健康・自由」を意味するとされるが、これが人間に固有で、侵害は自然法に違反する自然権であるとされたのは、彼の神学的パラダイムあってこそだし、そしてプロパティは神への義務を遂行するのに必要な基体として固有のものとされたのだった。そして上記の抵抗権とは、神への義務としてのプロパティの保全が守れないという、あくまで政治的統治の信託違反に対し、天への訴えの道として残された手段に過ぎなかった。かのようにロックは神と人間の間で苦しみ続けることになる。

一方で、ではキリスト教を当為として掲げるかというとそうでもない。というのも政治と宗教は分離されている。なぜならば、キリスト教の目的とは「永遠の生命」である限り、現世的利益である政治には介入しないのが筋であり、キリスト教政治共同体とはキリストの福音には存在しないものだったからである。『寛容についての手紙』とは、そうした政治における寛容を擁護する議論を展開したが、それでもやはり、政治的統治は固有権を保全する点で価値のあるものである以上、それを害する存在、すなわち道徳的規則を否定するものや、寛容の義務を否定するもの、外国の支配権の確立を擁護する教会構成員、無神論者は寛容の対象外となるのだ。

以降ロックはそこから離れ、認識=道徳論を吟味することになる。生涯のテーマである『人間知性論』では「神が人間の『行為』に対して定めた法」を知りたいがために、認識論を深めることになった。が、その基礎である神の意志は認識しうる保証はなく、辛うじて「奇跡」が神の啓示を伝えてくれる方法になる。そして『キリスト教の合理性』では、聖書に含まれる完全な倫理の体系を析出する。なんとここにおいて、「行いの法」と「信仰の法」は結合された。「一般的黄金律」すなわち「あなたたちが人々からして欲しいと思うことは全て、そのようにあなたたちも彼らにせよ」という命令から、認識=道徳論と政治=寛容論が撞着することになったのである。

 

ともあれ、社会の授業で扱われてきたロック像を払拭してくれる新書サイズのものはこれまでなかったので、まずは喝采をしたい。しかし間違ったロック像は問題であったのか、というとこれは悩ましくて、べつに正しいロック解釈に従わなければならない決まりもない。但し、ロックがどうしてそのように考えたのか、を追いかけると、そこには我々の考え方との相違が浮かび上がってきて、我々が当為としていた前提もがらがらと崩れてくる。その後の議論もどこまで活用できるのか怪しくなってくる。たとえば反自民の立場でロックを引用しようとも、そこはなかなかセンスは良くなさそうだとか。

なかでもプロパティ論の曖昧さは難しい問題だ。エピローグにちょろっとしか書かれてないが、プロパティの根源に人間の労働力がある以上、開墾した植民地は入植者のものになるという理論的根拠が出来てしまったのだ。プロパティ論に限らず、ロックの受容史は、実は理論の複眼的な理解において価値があると思うので、受容過程や、オーソドックスな理解のもたらした問題なんかがあればもう少し見てみたかった気がする。

 

ジョン・ロック――神と人間との間 (岩波新書)

ジョン・ロック――神と人間との間 (岩波新書)