池内恵『【中東大混迷を解く】シーア派とスンニ派』

池内恵先生によるブックレット企画。企画から池内先生が積極的に関与しているらしく、二年前に同じく新潮選書から出た中東大混迷を解くシリーズの二冊目になる。その前にも新潮選書では出してるので実質的には三冊目である。

正直言うと、あまり触れたくない。池内先生はネット内で方々にゲリラ戦を仕掛ける怖さもあるし、そのうえ、中東研究に土地勘のない自分からすると、研究者内の党派対立がどうもキナ臭く感じるので。どっちがどう正しいかとか、どこが地雷とか分からないのだ。

ともあれ、本書のエッセンス自体は非常にありがたくて、イスラムについて、巷間言われているような俗説を打破し整理し直すことが試みられている。とくにシーア派スンニ派の対立項というのが、いかに宗派対立というよりも政治的対立に基づく概念であるかというのを、シーア派スンニ派がどのようにして生まれたのかというのを、番頭さんと愛人の争いに異様な戯画化してみる等、混迷する中東の理解を分かりやすくしていることは間違いない。

シーア派誕生の歴史、それがイラン革命を受けてシーア派が反西洋としてイランに勃興したこ

と、これがイラク戦争とともに宗派対立として中東に広がったこと、またそのなかでレバノンという国が、分立するイスラム(スンニ派シーア派)とキリスト教マロン派のなかでどう尽力し、どう失敗したのか、そしてその後起こったアラブの春以降の近年の流れ、という内容で値段は1,000円と安い。コスパは最高である。

ただブックレット形式の性で、参考文献がついていない。代わりに一章で皆は色々なことを誤解している、最新の研究としてこんなものが出たりしている(けど中身にはそこまで踏み込まない)、と教えてくれる。それは良いが前置きが長く、それなら参考文献か脚注が欲しい(最近の選書の一番悪いところだと思う)。ニコ生の国際政治chを購読した方が面白いので、本としてはもう少し情報が欲しいなぁとも思わなくはない。

 

【中東大混迷を解く】 シーア派とスンニ派 (新潮選書)

【中東大混迷を解く】 シーア派とスンニ派 (新潮選書)

 

 

藤枝雅『飴色紅茶館歓談』

Kindleで買ったはいいけど、容量の都合上、泣く泣く削除を繰り返していて、供養のために記録を残しておこうシリーズパート2。

 

あまり読み込んでないので感想もないのだが、これは百合姫に連載されていた作品で、紅茶の喫茶店を営む芹穂と、そんな彼女に恋心を抱きながら働くさらさの百合作品。

最初の短編が出たのが2003年らしく、連載開始は百合姫vol.6(まだ独立増刊する2008年、vol.11よりも前の、季刊誌時代)。キャラクターの造形が、2000年代前半のギャルゲー的である(TH2の幼馴染みキャラを喩えに出しているのを見たことがある)。概ね穏やかな雰囲気で、事件も、修学旅行で一時的に離れるとかその程度のもの。ギャルゲーの日常パートくらいの気持ちで読めた。で、舞台装置たる店は、宝くじで当てた金で、というのだから、無理矢理非現実的な理想郷を奥行き無く作る感じは、ドッカーンで死んで異世界に行ってハーレム作るのと大差ないなぁなんて思ったり。そういう唐突さは随所に見られて、その修学旅行回は「五十年後も隣にいてね」という、聞いた側は告白に、言った側は良い人間関係としての投げ掛けをして話は終わるのだが、ここにはそれへの返答も書かれない。たぶんこのあとを書くとすると、誤解の解消だとか百合の否定にならざるを得ないが、だからこそ余計なことは書かれない。綺麗な世界である。

ただ恥ずかしながら全二巻なのに私は二巻目を買ってない。なので感想はここまでで。

 

飴色紅茶館歓談: 1 (百合姫コミックス)

飴色紅茶館歓談: 1 (百合姫コミックス)

 

 

久野遥子『甘木唯子のツノと愛』

Kindleで買ったはいいけど、容量の都合上、泣く泣く削除を繰り返していて、供養のために記録を残しておこうシリーズ第一段。

作者の久野遥子というひとは、岩井俊二の「ロトスコープアニメーションディレクター」を務めたのが名を売った仕事らしく、いわゆるアニメーターというよりもアニメーション作家と、漫画家を生業としている。これが漫画として抜群に面白いですか、と言われると、よく分からない。これは短編集であるが、いずれの作品も同じ作者なので空気感が似ているといえば当然で、唐突な場面展開の早さとかの映画的という感じもありつつ、基本のコンセプトはいずれも、愛し合う、あるいは信頼し合う二人が出てくるのだけど、そこには青春時代における何らかの共犯関係が描かれているところが共通している。それは表題作の、ツノと愛というタイトルが示していて、ツノが生えている妹と、居なくなった母に悪態をつく兄、そういう兄を分かってあげる妹、実はツノという突起とは兄の男根なのかもしれないとか、ユニコーンを象徴させていて、巧いというべきか、でもたくさんの要素を詰め込むがために場面が多すぎて、話の流れがぶつ切りだと思うか、悩むべきところである。たとえばツノが消える場面のうちで、妹が帽子を飛ばされるシーンについて、箒を持っていて掃除のためにそこにいるんだろうと推察されるんだけど、それを前置きなく一コマだけで場面展開したことにする。これが空気感を出していると言えば出している。

甘木唯子のツノと愛 (ビームコミックス)

甘木唯子のツノと愛 (ビームコミックス)

 

 

加藤節『ジョン・ロック 神と人間との間』

加藤節という人は成蹊大で教えていたことから安倍晋三に指導し、彼は授業に出てなかったのに単位を取って卒業したと暴露して一躍政権批判側で祭り上げられることになったが、政治思想の業界ではジョン・ロック研究者として著名な人物である。ジョン・ロックと言えば多くの人が中学か高校における社会の授業で ホッブズとの差異として抵抗権を主張したことは知っているだろうから、その研究者として筋としては一貫しているようにも思える。

ところでジョン・ロック研究と言えば加藤先生がというより、加藤先生と旧知であるケンブリッジジョン・ダンこそが画期的な研究者として知られ、加藤先生はジョン・ダンのロック研究を翻訳している。ジョン・ダンについては以下に詳しい。

http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/BA88454709-00000009-0183.pdf%3Ffile_id%3D118562&ved=2ahUKEwijj4qMs7bcAhWHIIgKHfTPC4QQFjACegQIBxAB&usg=AOvVaw34gw0VgmxIXIH8dhkTxofv

 

本書はジョン・ダンの解釈を踏まえて、加藤先生がロックの生涯と思想遍歴をまとめた新書である。我々が社会の授業で習ったことと何が一番違うかというと、本書副題の通り、ロックのスタンスは常に「神と人間の間」における在り方について悩むという点にあろう。

常識的な理解として、ロックとは近代的な、脱宗教化を果たした思想家であり、社会契約説を推し進めた人物として語る、丸山眞男以来の解釈がある。これ自体は間違いではなく、『統治二論』は王党派トーリーに対し、議会派ウイッグからの批判として書かれたものだが、ここにおいて論敵となったフィルマーは、「絶対王政」と「人間は自由に生まれついていないこと」という二点を、アダムの子孫たる人間の社会における家父長権を擁護する立場から導きだしている。これに対しロックは、人間の生来的な自由を主張し、政治と社会を人類に取り戻した。フィルマー的な不自由な状態からは脱することが出来ている。

但しその取り戻し方は結局、宗教的であった。

ロックは敬虔なキリスト教徒・ピューリタンであった。そのため彼の思想はキリスト教がその基礎となっており、例えば『統治二論』において我々がよく知る「プロパティ」は(所有権などとも訳される)「生命・健康・自由」を意味するとされるが、これが人間に固有で、侵害は自然法に違反する自然権であるとされたのは、彼の神学的パラダイムあってこそだし、そしてプロパティは神への義務を遂行するのに必要な基体として固有のものとされたのだった。そして上記の抵抗権とは、神への義務としてのプロパティの保全が守れないという、あくまで政治的統治の信託違反に対し、天への訴えの道として残された手段に過ぎなかった。かのようにロックは神と人間の間で苦しみ続けることになる。

一方で、ではキリスト教を当為として掲げるかというとそうでもない。というのも政治と宗教は分離されている。なぜならば、キリスト教の目的とは「永遠の生命」である限り、現世的利益である政治には介入しないのが筋であり、キリスト教政治共同体とはキリストの福音には存在しないものだったからである。『寛容についての手紙』とは、そうした政治における寛容を擁護する議論を展開したが、それでもやはり、政治的統治は固有権を保全する点で価値のあるものである以上、それを害する存在、すなわち道徳的規則を否定するものや、寛容の義務を否定するもの、外国の支配権の確立を擁護する教会構成員、無神論者は寛容の対象外となるのだ。

以降ロックはそこから離れ、認識=道徳論を吟味することになる。生涯のテーマである『人間知性論』では「神が人間の『行為』に対して定めた法」を知りたいがために、認識論を深めることになった。が、その基礎である神の意志は認識しうる保証はなく、辛うじて「奇跡」が神の啓示を伝えてくれる方法になる。そして『キリスト教の合理性』では、聖書に含まれる完全な倫理の体系を析出する。なんとここにおいて、「行いの法」と「信仰の法」は結合された。「一般的黄金律」すなわち「あなたたちが人々からして欲しいと思うことは全て、そのようにあなたたちも彼らにせよ」という命令から、認識=道徳論と政治=寛容論が撞着することになったのである。

 

ともあれ、社会の授業で扱われてきたロック像を払拭してくれる新書サイズのものはこれまでなかったので、まずは喝采をしたい。しかし間違ったロック像は問題であったのか、というとこれは悩ましくて、べつに正しいロック解釈に従わなければならない決まりもない。但し、ロックがどうしてそのように考えたのか、を追いかけると、そこには我々の考え方との相違が浮かび上がってきて、我々が当為としていた前提もがらがらと崩れてくる。その後の議論もどこまで活用できるのか怪しくなってくる。たとえば反自民の立場でロックを引用しようとも、そこはなかなかセンスは良くなさそうだとか。

なかでもプロパティ論の曖昧さは難しい問題だ。エピローグにちょろっとしか書かれてないが、プロパティの根源に人間の労働力がある以上、開墾した植民地は入植者のものになるという理論的根拠が出来てしまったのだ。プロパティ論に限らず、ロックの受容史は、実は理論の複眼的な理解において価値があると思うので、受容過程や、オーソドックスな理解のもたらした問題なんかがあればもう少し見てみたかった気がする。

 

ジョン・ロック――神と人間との間 (岩波新書)

ジョン・ロック――神と人間との間 (岩波新書)

 

 

 

筒井清忠『戦前日本のポピュリズム 日米戦争への道』

ポピュリズムが大ブームだった。

2016年頃、「2017年は政治リスクが多発する」みたいな言説が拡散したが、それは2016年の鏡像というか、Brexitとトランプ当選という想定外(と言っても世論調査では僅差だったはずだが)という事態を受けて、2017年も続くはずだ、という観測の下でなされた予言だった。そして実際には、思ったよりもイベント自体は盛り上がりに欠けた。

その一方で日本はというと、総理の個人的なスキャンダルはあったものの、概ね磐石だった。安倍首相とは愛国的な理想主義者と思いきや、むしろ民主主義の守り手の一角と言われたくらいであり、ポピュリズム旋風みたいなものは起こってないようにも見える。しかしそのなかで、日本国内の一部勢力の動きと、それにより動く政党政治だけを見るのならば、現代政治は戦前のものと相似しているのではないか。これが筒井先生の問題意識であり、これについては概ね同意できる。いわゆる「軍靴の足音」が聞こえる云々ということではない。混乱を引き起こした戦前日本のモチベーションは、現代日本でも似たようなものが見られており、それは使い方次第では戦争の遠因にはなりうるので留意しなくてはならない、ということである。

本書では、戦前のいくつかの事件を抽出し、あの時代におけるポピュリズム運動の内訳と、どのように運動が進展していったのか、が描き出される。端緒は日比谷焼き打ち事件である。日露戦争講和条約に対して反発したこの事件は、いわゆる「大衆」が登場した事件として取り扱われる。ここでは警官への不満(軍隊への共感)が、メディアによって増幅され、そして天皇ナショナリズムによって支えられることで、武力倒幕派から連なって運動が結実した。

それ以降、大正期のポピュリズム運動はその延長線上にあり、そしてアメリカと中国への排撃へと繋がった。また平等主義的な動きもあったが、こちらは普通選挙の導入により一旦の収まりを見せた。ここまではよくあるストーリーである。

その後にフィーチャーされるのは、なんと朴烈怪写真事件である。所謂、原敬に次ぐ平民宰相として若槻内閣が好評の内に成立した。その後いくつかの政治スキャンダルがあり、この大逆事件において朴烈と金子文子の情愛がスキャンダラスに伝えられ、そして恩赦によって無期懲役へと減刑された後、監獄において抱き合う二人の画像が出回ると一転して政争の具へとなっていく。この事件は、普通選挙を控える中で、劇場型政治が強まることが政権打倒まで辿り着いた例として本書では語られることになる。

若槻内閣が倒閣し、田中内閣が大命降下により成立した。張作霖爆殺事件を契機に辞職することになるのだが、その前には、水野文相の辞任騒ぎにおいて田中義一が留任の優諚を天皇に押し付けたとして問題されて天皇に進退伺いを出したり、不戦条約における文言についての問題があり、と天皇シンボルをめぐる抗争によって政権はとうに揺らいでいた。天皇のシンボル性をめぐる問題は政争のための道具として、肥大化したメディアと今ない権威に期待し続ける無責任な知識人という、すべての問題が出揃う。

その後は浜口内閣におけるロンドン海軍軍縮条約に対する統帥権干犯問題が起こり、第二次若槻内閣と、満州事変におけるメディアの劇場性の拡大、そして五・一五事件における政党専横への批判、それへの抵抗としての「中立的な」「天皇陛下の警察官」を歓迎する構造、とこれまでのポピュリズム的特徴が繰り返されることになる。

また国際連盟脱退、帝人事件(検察に乗ってメディアは政権を総叩きし、斎藤内閣倒閣となった後に無罪となると、今度はファッショなどと検察を叩く無責任)、天皇機関説事件(合法無血のクーデターとしての岡田内閣打倒運動化)を踏まえ、その後日中戦争において近衛内閣の人気さにより、議会・世論を考えて和平工作が潰れ、戦争は拡大して行った。

 

ここまで長々とまとめたが、延々と同じ要素が繰り返され、反復し、増幅されていき、もはや後戻りできなくなるくらいになっていったものだということが分かる。そしてその要素は、いまの日本でも概ね同じである。もちろん、要素が同じだからと言って日本が戦争に向かう、などという単純なアナロジーを訴えるつもりはない。だが、いずれも社会における寛容さを奪い、攻撃性を高め、排他的になるのだとすればそれは避けていきたい状態かもしれない。

本書に一つ苦言を呈するならば、ポピュリズムとは何なのか、が明確ではないので、抽出基準がどうなっているのか、結論に都合のよい運動のみをポピュリズムとして取り上げたがための現代への適用可能性ではないのか、すなわち現代へのアナロジーとするには概念化、一般化作業に欠如してるのではないか、などという部分がないわけではない。つまらないケチではあるとも思うが、それでも概念化作業を通じてることで、もっと想定外の事件が抽出されていたかもしれない、などとも思う。

 

 

橋本卓典『捨てられる銀行』

 金融庁が改革を進めているというのは、経済ニュースをある程度追っていれば簡単に入ってくる。Fintechを原因とした銀行不要論も合わさり、まるで銀行とは悪の親玉かのように取り扱われている。

本書は、金融庁改革の先頭に立つ森長官の考えについて、様々な周辺の人間にヒアリングしてまとめた一冊である。率直に言って提灯記事であり、森長官とは高潔な理念で正しい改革へと導いてくれるリーダーであるかのように語られる。本書にはラストに「銀行は、森の発言だけで右往左往するのではなく、深く理解し、その先を読んで動かなければならない」との文言もあり、その扱いはまるで教祖様である。

 非常に簡単にまとめると、最近の銀行はノルマ主義に追われて、地域の再生という本分を忘れて「捨てられる」可能性すらある。これはバブル崩壊後に導入された金融庁検査および金融検査マニュアルによって銀行の貸出が担保主義に陥り、リスクマネーの拠出をしなくなったことに由来する。森長官の改革とは、銀行に顧客企業の成長に資するような行動を取らせることであり、例えば金利を取ってでも衰退する地域金融機関へ貸出をして成長を促そうとする稚内信金や、ノルマを廃した北國銀行、いろいろ工夫をしたきらやか銀行北都銀行を見習い、銀行員はリレーションシップバンキングを意識すべきだ、となる。

 いくつか耳を傾けるべき内容もある。やはり地方銀行の銀行員は、衰退する地方の中で苦しんでいて、何とか貸出先を増やすべく越権(県)をして都会に繰り出したりしているのは確かで、無為な低金利競争を激化させている。金融庁検査以来、ハイリスク先に金を出すことは悪とされ、検査のための「お土産」として債務者区分を落とさせられるため、その矛先が自分に向かないようにとリスクテイクしなくなっている。彼らは残高と件数ばかりを追うようになり、仕事量だけが増え、自分達の首を絞め続ける。

一方でその事業は伸びる、と思って金を貸し出して失敗した例も枚挙に暇がないことは本書では忘れ去られている。一番分かりやすいのは、新潟中央銀行によるバブル期の「乱脈融資」である。「目利きが出来てなかった」というのは簡単だが、ハイリスク先に対して目利きが出来れば貸し倒れる筈がないというのは理想であり、それは理想であるという発想の下で担保主義は産まれたのではなかったのか。バブル期は担保をきちんと確認せずにザル融資をしていたのが問題になったはずだ。こうした問題にはどう対処するつもりなのか。

新潟中央銀行 - Wikipedia

「それでも銀行がコンサルティングできれば問題ないはずだ」というのかもしれないが、まず専門のコンサルタント会社はウルトラCを提示できるスペシャルな存在とでも思っているのだろうか。そのうえで銀行員が片手間で出来るとでも言うのだろうか?? リレーションさえあれば何とかなるのだろうか?? 本書では森長官のそうした思い込みに何のエビデンスも与えてくれず、森長官のセンス(本書にはこんな言葉も出てくる)を信じろ、と唱え続けるだけだ。

とは言え、地銀が画一的サービスで付加価値を提示できていないのも事実だろう。スルガ銀行という地域に貢献しない例外的地銀を森長官が褒め称えたのは個人的には間違っていないと思っている。ヤバい先に高金利で金を貸す銀行は世の中に少ない。あとはノンバンクしかないのだから、超低金利(銀行)と超高金利(ノンバンク)の間隙を埋める存在はもう少しいてもいい。昨今盛り上がるスルガ銀行のかぼちゃ問題は、本質的にはスルガ内部の話に過ぎない。つまり審査を通すために資料を改竄したからと言って、スルガ銀行の経営が揺らいだわけでもなし、経済的にはどうでもよい(法的な問題は別かもしれないが)。金融庁は地銀にリスクマネーへの拠出を訴えるなら、もっと腹を括ればよいのだ。たとえば収入証明ない顧客も受け入れる代わりに金利をより上げるとか、それが許容できていれば単なるスルガの貸し倒れに終始したはずだ。

お勉強が出来たベスト&ブライテストな方々は、相変わらず全てをコントロールしたがるので、銀行が地域にどれだけ貢献したかのチェックをし、地銀はしょうもないアドバルーン案件を作るのだろうけど。そのうえで「御行はどうやって儲ける気なのか」と検査で宣うのだ。理想の崇高さに対し、実践されるときのお粗末さについては本書は目を瞑る。それでは、不毛だ。それでも金融庁を捨てられる日は来ない。

 

捨てられる銀行 (講談社現代新書)

捨てられる銀行 (講談社現代新書)

 

 

樫木祐人『ハクメイとミコチ』

この世界は趣味で成立している。

本書は全長9cmの小人と、その他森に生きる動物たちの日常を描いた漫画である。基本的なストーリーは、小人のハクメイが同居するミコチを連れ回して、様々な住人と触れ合う日常の様が描かれている。そして、そこにいる彼らが多くの趣味に没頭する姿は大いに人間的で、そしてそれは、より非人間的でもある。

例えば衣服。修理工をしているハクメイ(23歳♀)の親方である鰯谷親方(通称イワシ・ニホンイタチ・32歳♂)は普段は服を着ていないのだが、仕事一筋であるのに業を煮やしたハクメイとミコチ(24歳♀)に街に連れ出されると、飯を食べるとともに普段着も買うことになるというエピソードがあった。(キャラクターの年齢は以下、足下の歩き方より) 

 ちょっと待てと。お前これまで全裸だったのか、と。多くの登場人物(ヒトに限らず動物も)は服を着ている。一方でイワシに限らず、ドブネズミのミソニ&デンガクも全裸だし、コクワガタのコハルも同じく全裸である。四足歩行かどうかかとも思ったが、イワシはイタチではあるが基本は二足歩行しているし、そもそも二足歩行かどうかの区別がどうつけられているか不明瞭である。

一つ言えるのは、倫理的に服を着なくてはいけないヒトを除いて、服を着させることは趣味や酔狂でしかありえない。写真家であり、生きている者達の日常を切り取るヨツユビトビネズミのミミは雨に降られて、明日着る服を心配するが、全裸ではいけないらしい。そもそも日常を撮る写真家とはヨツユビトビネズミのやる仕事であるのか、と考えると、いろいろな行動原理が単なる趣味のようにも見えてくる。

國分功一郎の『暇の退屈の倫理学』を思い出すと、そもそも我々平民は暇などなく、ブルジョワジーの台頭とともに暇の潰し方の分からなさから主観的な退屈という概念が問題になったのであり、貴族にとっては暇の潰し方はそう問題にはなってこなかった。

 

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)
 

貨幣経済が浸透し、組織で動かないハクミコの世界観は、ブルジョワの台頭してきていない前時代を彷彿とさせる。そして暇にかこつけて、衣服に限らず、料理、釣り、音楽、祭り、機械、賭け、と異常なまでに人間的に趣味に費やす。到底動物とは思えない。一方で彼らはおそらく平民である。貴族が存在していないので態々そう呼ぶことも憚られるが、しかしながら平民的に齷齪と、明日食べるものに困って働くという姿は見受けられない。平和で自由で、理想的な世界である。その姿は極端に人間的であり、もはや人間ですら到達できない境地にいる彼らは、非人間的ではないか。

作者の樫木祐人(かしきたくと)という漫画家もずいぶんと酔狂である。まず一見して驚くその書き込み量。世界観を構築するのには、ディテールにここまで拘るのか、と感じさせる(Blu-ray特典のアニメ監督・安藤正臣との対談でも、本当に日本の漫画家か、と驚かれていた。バンドデシネの雰囲気はあるかもしれない)。私は学園祭学園の阿部草介(パーカッショニスト)さんが昔の番組で紹介して知ったのだが、パーカッションの叩く描写が正しいらしい。このことはハクミコラジオにて、誰かがその旨のメールを送っていた。学園祭学園ファンの所業である。皆が酔狂で楽しんでいる空間になった。こうして酔狂で、趣味の世界がぐるりと一周した。

  

ハクメイとミコチ 1巻 (ビームコミックス)

ハクメイとミコチ 1巻 (ビームコミックス)