筒井清忠『戦前日本のポピュリズム 日米戦争への道』

ポピュリズムが大ブームだった。

2016年頃、「2017年は政治リスクが多発する」みたいな言説が拡散したが、それは2016年の鏡像というか、Brexitとトランプ当選という想定外(と言っても世論調査では僅差だったはずだが)という事態を受けて、2017年も続くはずだ、という観測の下でなされた予言だった。そして実際には、思ったよりもイベント自体は盛り上がりに欠けた。

その一方で日本はというと、総理の個人的なスキャンダルはあったものの、概ね磐石だった。安倍首相とは愛国的な理想主義者と思いきや、むしろ民主主義の守り手の一角と言われたくらいであり、ポピュリズム旋風みたいなものは起こってないようにも見える。しかしそのなかで、日本国内の一部勢力の動きと、それにより動く政党政治だけを見るのならば、現代政治は戦前のものと相似しているのではないか。これが筒井先生の問題意識であり、これについては概ね同意できる。いわゆる「軍靴の足音」が聞こえる云々ということではない。混乱を引き起こした戦前日本のモチベーションは、現代日本でも似たようなものが見られており、それは使い方次第では戦争の遠因にはなりうるので留意しなくてはならない、ということである。

本書では、戦前のいくつかの事件を抽出し、あの時代におけるポピュリズム運動の内訳と、どのように運動が進展していったのか、が描き出される。端緒は日比谷焼き打ち事件である。日露戦争講和条約に対して反発したこの事件は、いわゆる「大衆」が登場した事件として取り扱われる。ここでは警官への不満(軍隊への共感)が、メディアによって増幅され、そして天皇ナショナリズムによって支えられることで、武力倒幕派から連なって運動が結実した。

それ以降、大正期のポピュリズム運動はその延長線上にあり、そしてアメリカと中国への排撃へと繋がった。また平等主義的な動きもあったが、こちらは普通選挙の導入により一旦の収まりを見せた。ここまではよくあるストーリーである。

その後にフィーチャーされるのは、なんと朴烈怪写真事件である。所謂、原敬に次ぐ平民宰相として若槻内閣が好評の内に成立した。その後いくつかの政治スキャンダルがあり、この大逆事件において朴烈と金子文子の情愛がスキャンダラスに伝えられ、そして恩赦によって無期懲役へと減刑された後、監獄において抱き合う二人の画像が出回ると一転して政争の具へとなっていく。この事件は、普通選挙を控える中で、劇場型政治が強まることが政権打倒まで辿り着いた例として本書では語られることになる。

若槻内閣が倒閣し、田中内閣が大命降下により成立した。張作霖爆殺事件を契機に辞職することになるのだが、その前には、水野文相の辞任騒ぎにおいて田中義一が留任の優諚を天皇に押し付けたとして問題されて天皇に進退伺いを出したり、不戦条約における文言についての問題があり、と天皇シンボルをめぐる抗争によって政権はとうに揺らいでいた。天皇のシンボル性をめぐる問題は政争のための道具として、肥大化したメディアと今ない権威に期待し続ける無責任な知識人という、すべての問題が出揃う。

その後は浜口内閣におけるロンドン海軍軍縮条約に対する統帥権干犯問題が起こり、第二次若槻内閣と、満州事変におけるメディアの劇場性の拡大、そして五・一五事件における政党専横への批判、それへの抵抗としての「中立的な」「天皇陛下の警察官」を歓迎する構造、とこれまでのポピュリズム的特徴が繰り返されることになる。

また国際連盟脱退、帝人事件(検察に乗ってメディアは政権を総叩きし、斎藤内閣倒閣となった後に無罪となると、今度はファッショなどと検察を叩く無責任)、天皇機関説事件(合法無血のクーデターとしての岡田内閣打倒運動化)を踏まえ、その後日中戦争において近衛内閣の人気さにより、議会・世論を考えて和平工作が潰れ、戦争は拡大して行った。

 

ここまで長々とまとめたが、延々と同じ要素が繰り返され、反復し、増幅されていき、もはや後戻りできなくなるくらいになっていったものだということが分かる。そしてその要素は、いまの日本でも概ね同じである。もちろん、要素が同じだからと言って日本が戦争に向かう、などという単純なアナロジーを訴えるつもりはない。だが、いずれも社会における寛容さを奪い、攻撃性を高め、排他的になるのだとすればそれは避けていきたい状態かもしれない。

本書に一つ苦言を呈するならば、ポピュリズムとは何なのか、が明確ではないので、抽出基準がどうなっているのか、結論に都合のよい運動のみをポピュリズムとして取り上げたがための現代への適用可能性ではないのか、すなわち現代へのアナロジーとするには概念化、一般化作業に欠如してるのではないか、などという部分がないわけではない。つまらないケチではあるとも思うが、それでも概念化作業を通じてることで、もっと想定外の事件が抽出されていたかもしれない、などとも思う。

 

 

橋本卓典『捨てられる銀行』

 金融庁が改革を進めているというのは、経済ニュースをある程度追っていれば簡単に入ってくる。Fintechを原因とした銀行不要論も合わさり、まるで銀行とは悪の親玉かのように取り扱われている。

本書は、金融庁改革の先頭に立つ森長官の考えについて、様々な周辺の人間にヒアリングしてまとめた一冊である。率直に言って提灯記事であり、森長官とは高潔な理念で正しい改革へと導いてくれるリーダーであるかのように語られる。本書にはラストに「銀行は、森の発言だけで右往左往するのではなく、深く理解し、その先を読んで動かなければならない」との文言もあり、その扱いはまるで教祖様である。

 非常に簡単にまとめると、最近の銀行はノルマ主義に追われて、地域の再生という本分を忘れて「捨てられる」可能性すらある。これはバブル崩壊後に導入された金融庁検査および金融検査マニュアルによって銀行の貸出が担保主義に陥り、リスクマネーの拠出をしなくなったことに由来する。森長官の改革とは、銀行に顧客企業の成長に資するような行動を取らせることであり、例えば金利を取ってでも衰退する地域金融機関へ貸出をして成長を促そうとする稚内信金や、ノルマを廃した北國銀行、いろいろ工夫をしたきらやか銀行北都銀行を見習い、銀行員はリレーションシップバンキングを意識すべきだ、となる。

 いくつか耳を傾けるべき内容もある。やはり地方銀行の銀行員は、衰退する地方の中で苦しんでいて、何とか貸出先を増やすべく越権(県)をして都会に繰り出したりしているのは確かで、無為な低金利競争を激化させている。金融庁検査以来、ハイリスク先に金を出すことは悪とされ、検査のための「お土産」として債務者区分を落とさせられるため、その矛先が自分に向かないようにとリスクテイクしなくなっている。彼らは残高と件数ばかりを追うようになり、仕事量だけが増え、自分達の首を絞め続ける。

一方でその事業は伸びる、と思って金を貸し出して失敗した例も枚挙に暇がないことは本書では忘れ去られている。一番分かりやすいのは、新潟中央銀行によるバブル期の「乱脈融資」である。「目利きが出来てなかった」というのは簡単だが、ハイリスク先に対して目利きが出来れば貸し倒れる筈がないというのは理想であり、それは理想であるという発想の下で担保主義は産まれたのではなかったのか。バブル期は担保をきちんと確認せずにザル融資をしていたのが問題になったはずだ。こうした問題にはどう対処するつもりなのか。

新潟中央銀行 - Wikipedia

「それでも銀行がコンサルティングできれば問題ないはずだ」というのかもしれないが、まず専門のコンサルタント会社はウルトラCを提示できるスペシャルな存在とでも思っているのだろうか。そのうえで銀行員が片手間で出来るとでも言うのだろうか?? リレーションさえあれば何とかなるのだろうか?? 本書では森長官のそうした思い込みに何のエビデンスも与えてくれず、森長官のセンス(本書にはこんな言葉も出てくる)を信じろ、と唱え続けるだけだ。

とは言え、地銀が画一的サービスで付加価値を提示できていないのも事実だろう。スルガ銀行という地域に貢献しない例外的地銀を森長官が褒め称えたのは個人的には間違っていないと思っている。ヤバい先に高金利で金を貸す銀行は世の中に少ない。あとはノンバンクしかないのだから、超低金利(銀行)と超高金利(ノンバンク)の間隙を埋める存在はもう少しいてもいい。昨今盛り上がるスルガ銀行のかぼちゃ問題は、本質的にはスルガ内部の話に過ぎない。つまり審査を通すために資料を改竄したからと言って、スルガ銀行の経営が揺らいだわけでもなし、経済的にはどうでもよい(法的な問題は別かもしれないが)。金融庁は地銀にリスクマネーへの拠出を訴えるなら、もっと腹を括ればよいのだ。たとえば収入証明ない顧客も受け入れる代わりに金利をより上げるとか、それが許容できていれば単なるスルガの貸し倒れに終始したはずだ。

お勉強が出来たベスト&ブライテストな方々は、相変わらず全てをコントロールしたがるので、銀行が地域にどれだけ貢献したかのチェックをし、地銀はしょうもないアドバルーン案件を作るのだろうけど。そのうえで「御行はどうやって儲ける気なのか」と検査で宣うのだ。理想の崇高さに対し、実践されるときのお粗末さについては本書は目を瞑る。それでは、不毛だ。それでも金融庁を捨てられる日は来ない。

 

捨てられる銀行 (講談社現代新書)

捨てられる銀行 (講談社現代新書)

 

 

樫木祐人『ハクメイとミコチ』

この世界は趣味で成立している。

本書は全長9cmの小人と、その他森に生きる動物たちの日常を描いた漫画である。基本的なストーリーは、小人のハクメイが同居するミコチを連れ回して、様々な住人と触れ合う日常の様が描かれている。そして、そこにいる彼らが多くの趣味に没頭する姿は大いに人間的で、そしてそれは、より非人間的でもある。

例えば衣服。修理工をしているハクメイ(23歳♀)の親方である鰯谷親方(通称イワシ・ニホンイタチ・32歳♂)は普段は服を着ていないのだが、仕事一筋であるのに業を煮やしたハクメイとミコチ(24歳♀)に街に連れ出されると、飯を食べるとともに普段着も買うことになるというエピソードがあった。(キャラクターの年齢は以下、足下の歩き方より) 

 ちょっと待てと。お前これまで全裸だったのか、と。多くの登場人物(ヒトに限らず動物も)は服を着ている。一方でイワシに限らず、ドブネズミのミソニ&デンガクも全裸だし、コクワガタのコハルも同じく全裸である。四足歩行かどうかかとも思ったが、イワシはイタチではあるが基本は二足歩行しているし、そもそも二足歩行かどうかの区別がどうつけられているか不明瞭である。

一つ言えるのは、倫理的に服を着なくてはいけないヒトを除いて、服を着させることは趣味や酔狂でしかありえない。写真家であり、生きている者達の日常を切り取るヨツユビトビネズミのミミは雨に降られて、明日着る服を心配するが、全裸ではいけないらしい。そもそも日常を撮る写真家とはヨツユビトビネズミのやる仕事であるのか、と考えると、いろいろな行動原理が単なる趣味のようにも見えてくる。

國分功一郎の『暇の退屈の倫理学』を思い出すと、そもそも我々平民は暇などなく、ブルジョワジーの台頭とともに暇の潰し方の分からなさから主観的な退屈という概念が問題になったのであり、貴族にとっては暇の潰し方はそう問題にはなってこなかった。

 

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)
 

貨幣経済が浸透し、組織で動かないハクミコの世界観は、ブルジョワの台頭してきていない前時代を彷彿とさせる。そして暇にかこつけて、衣服に限らず、料理、釣り、音楽、祭り、機械、賭け、と異常なまでに人間的に趣味に費やす。到底動物とは思えない。一方で彼らはおそらく平民である。貴族が存在していないので態々そう呼ぶことも憚られるが、しかしながら平民的に齷齪と、明日食べるものに困って働くという姿は見受けられない。平和で自由で、理想的な世界である。その姿は極端に人間的であり、もはや人間ですら到達できない境地にいる彼らは、非人間的ではないか。

作者の樫木祐人(かしきたくと)という漫画家もずいぶんと酔狂である。まず一見して驚くその書き込み量。世界観を構築するのには、ディテールにここまで拘るのか、と感じさせる(Blu-ray特典のアニメ監督・安藤正臣との対談でも、本当に日本の漫画家か、と驚かれていた。バンドデシネの雰囲気はあるかもしれない)。私は学園祭学園の阿部草介(パーカッショニスト)さんが昔の番組で紹介して知ったのだが、パーカッションの叩く描写が正しいらしい。このことはハクミコラジオにて、誰かがその旨のメールを送っていた。学園祭学園ファンの所業である。皆が酔狂で楽しんでいる空間になった。こうして酔狂で、趣味の世界がぐるりと一周した。

  

ハクメイとミコチ 1巻 (ビームコミックス)

ハクメイとミコチ 1巻 (ビームコミックス)

 

  

 

 

押井守『誰も語らなかったジブリを語ろう』

高畑勲が死んで、あぁ素晴らしい演出家が死んだ、勿体ない、惜しい人を、だなんて呟きに一瞬だけ溢れた昨今。あなたたち、高畑作品なんて映画としては火垂るの墓くらいで、他は馬鹿にしてたんじゃないの、というもぞがゆさ(ぽんぽことか、ほーほけきょとか、かぐや姫とか…)はあるが、とはいえ人が死ねば美化されるのは世の常。人の死を惜しむのには、高畑勲の作家性などは必要ない。

本書は、日本ではほぼ見かけない、ジブリ批判・宮崎駿批判をふんだんに盛り込んだ押井節炸裂の対談本。普通の映画ライター(渡辺麻紀)がジブリ宮崎駿を普通に批判したんじゃ「何様だ」と怒られるところを、日本でも数少ない、宮崎駿を叩いても許される押井守を隠れ蓑にしたという英断の下で成立した企画とも言える。押井守が許されるのは、その天衣無縫(?)な放言のスタイルと、ジブリ関係者との距離感の近さ故だろう。なんたって押井守の短編映画には、実写で鈴木俊夫を、女性スナイパーが飯を食いながら暗殺するだけの作品すらある。宮崎駿高畑勲鈴木俊夫というトライアドと怒鳴り合いして、それでも付き合える訳の分からない人間は語るに相応しいとも思える(恫喝を得意とする三人の秘密警察とすら例えられている)。

 作品論は三章立てで、「矛盾を抱えた天才 宮崎駿」「リアリズムの鬼 高畑勲」「ジブリ第三の監督」とあり、一作ずつ時代ごとに語りは進むが中心は宮崎駿論。サブタイトル通り、宮崎駿という人物の矛盾、そして天才性が大いに説明される。ジブリには既に、思想・記号論に基づく精緻な作品分析の著作が巷間に揃っているが、こちらはもっと下世話であり、宮崎駿にはロジックがない、没論理的な人間で、但し鋭い勘がある。こういうシーンが描きたいをとてつもない表現力で描く天才と評し、好きな女のタイプは完全無欠で賢くて健気で真っ直ぐ。トイレにすら行かない(トイレに行くキキは鈴木俊夫のキャラクターである)。自然が好きで文明批判をするのに、古い戦闘機が好きで、この矛盾は思想的にはまとめられてないし、価値観の葛藤が作中に全くないけど、それを乗り越えるアニメーターとしての描写力がある(食事・水・自然は絶品。あとは三途の川)。作品構造が弱く、妄想をひたすら詰め込んでも、最後は自己犠牲でドラマを無理矢理チャンチャンと締めるから劇映画としては成立する(宮崎駿デヴィッド・リンチにならないのはココが原因だとか)。社会的な思想の弱さは徐々に力をつけたテーマのない男・鈴木俊夫が箔付けして日本全土を巻き込んでしまった。押井守は何度となくこうしたこと語ってきているが、大いに作品単位でそうしたことを延々と語り続ける。つまらないわけがない。

 逆に宮崎駿論以外はやや蛇足。演出家として天才だった高畑勲は、ジブリではほぼろくな仕事をしておらず、火垂るは辛うじて冷徹な高畑の圧倒的なリアリズムで評価しうるが、あとは「クソインテリ」の理想・妄想・農本主義だとこき下ろす。アニメーションとしての表現の実験(おもひでのキャラクターは頬の筋肉が動く)をするが、作品としては面白くならない。じゃりン子チエのホームドラマは良かったらしいが、ほーほけきょは無意味な実験をして失敗。まぁ皆知っていることではある。高畑は葛藤が下手で、左翼・クソインテリの理想主義ばかりで、勉強家とは言われているが、リアリズムについてはあまり語られていない気がする。

第三の監督論は、耳すまの近藤さんだけは宮崎駿の呪縛から逃れているが、あとは劣化コピーで、吾朗にはフェティッシュが足りない。但し米林(麻呂)さんだけは二作目のマーニーでウジウジとした女の子を描いたという時点でやや評価できる(でも鈴木俊夫に、あらゆる原作を日本を舞台に改変させられることに変わりはないのだが)。

でもここまでこき下ろした押井守だが、宮崎駿への愛情は未だにある。ここが上手い。キャラクターの葛藤を書けない宮崎駿の大傑作は、短編である「めいとこねこバス」だとか。俄然見てみたい。

 

 

永井均『ウィトゲンシュタイン入門』

ウィトゲンシュタインに入門してみた。

我らが(?)永井均先生による、入門本。哲学徒ではないので解釈の是非を問うつもりはないが、あの永井均の仕事、として考えるとオーソドックスな入門書になってるのではないかと思う。

冒頭の序章こそ、永井均個人が幼少の頃から感じていた疑問、「私はなぜ、今ここにこうして存在しているのか」という問いに対して、ウィトゲンシュタイン独我論こそが自分と同じ悩みにぶち当たってくれたという共感から始まる。何とも客観性に乏しい記載であり、そして難解。しかし一方でウィトゲンシュタインの取り組んだ独我論が一貫したイシューではないという説明から、後々の内容を要約する段になると、引き続き難解だが真っ当な説明が始まる。

一章からはもっと穏当である。ウィトゲンシュタインの生い立ちから、その頃取り組んでいたテーマが平行して語られる。

前期ウィトゲンシュタインとは最も華々しい時期である。つまり、『論理哲学論考』を著し、かの有名な「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」というアレが飛び出した。これはどういう意味なのだろうか、それを説明するのが最初のテーマである。

『論考』のウィトゲンシュタインによれば、すべての命題は、事態の写像である要素命題へと分析できる。そしてこの構成は真理関数に基づくわけだが、これはトートロジーである。すなわち論理は、外部からそれについて語るメタ理論を持ちえないのであり、それゆえに論理は先験的、つまり経験的な事実に先立ち世界と言語の形式を示していなければならない。ここでルイスキャロルの寓話「亀がアキレスに語ったこと」が引かれるが、それは「Aと、AならばB、からBを導くことができる」という前件肯定式から、Bを受け入れなければならないかと言うと、そこには、「Aでありかつ「AならばB」であるならばBである」というPの論理法則がないと完成しない、結局果てしない問答になってしまう、というものだ。こうして、『論考』の諸命題は世界を正しく見ることを助けるための、一時的な方便でしかなくなり、自然科学の命題以外には語りえぬこととなるのだ(『論考』を除いて)。また、語りえぬものとは、こうした世界の形式そのものであるがゆえに語りえぬ先験的なもの、とは別に、世界の外にあるがゆえに語りえぬ超越論的なもの、がある(トランスツェンデンタール)。そして、「言語」という先験的なものと、「私」という超越論的なものが、「私の言語の限界は私の世界の限界を意味する」という形で統一される。さすれば主体は世界に属さなくなる。こうして独我論は設定された。

そこからウィトゲンシュタインの人生の描写とともに中期が始まる。論理を否定し、文法へと変化していった時期である。二メートルである、ゆえに三メートルではない、といった推論を鑑みた際、要素命題は独立ではありえない。相互に関係しあう。一方で、黒いものについて、それによって騒がしいことを語ることは、その語り方において空間を取り違えている。命題において、意味を知っていることは検証方法を知っていることであるという立場を取ると、文法規則の提示こそが検証条件の指定に、そして意味へと繋がっていく。逆に、検証の方法が違えば命題も異なる。検証は命題を、それを検証する現象記述命題へと内的に関係づけられ、こうした記述は、文法規則としてのみ立てられるのだ。こうして意味とは何か、ものごとの本質とは何か、などと考えても、全てが文法の内部に留まるしかなくなるのである。全ては文法である、に対するあらゆる反論すらも文法でしかありえない。では現象はどのように捉えられるかというと、もはや現象は検証主義的である以上は放棄され、代わりに規準(目印)にとって代わられることになった。たとえば雨が降っているという視覚印象があったとして、これは雨が降っていることの規準になる。あるいは志向もまた言語によって可能たらしめられる。しかし、では何故語の意味は、それでありうるのか。どうして皆が同じように振る舞いうるのか。そこには規則ではなく、慣習(プラクティス)に従うという言語ゲームへの萌芽がある。

そして、後期ウィトゲンシュタイン言語ゲームについて語る。言語とそれが織り込まれる諸活動の総体が言語ゲームと名付けられるが、例えば、「赤いリンゴ五個」とある紙片を持って果物屋に行ったらリンゴ五個が買える。これはよく考えたら不思議なことで、言語の解釈もなくリンゴを買えるのは、そのような慣習を生きているから、であり、生き方という語られることのない生活形式のなかに言語ゲームはある。言葉の意味とは、心の中にはなく、生活の形式に他ならない。そこに本質的な特徴など存在しない。そしてルールこそがゲームのプレイを、ではなく、無根拠なゲームこそがこの規則を存立たらしめる。チェスのゲームとルールの関係を考えるとよい。しかし無根拠に適用される規則とは、それについての規則があっても、それについての規則が、そしてまた規則が…と行為に辿り着かない。そうして最後には実例による訓練と慣習のみが残る。偶然とみなされるものごとが、歴史の審判を経て正しさは決定される。そうして規則に従うこととは、実践に他ならない。それに従うと信じることは信じるという規則を必要とする以上、私的に従うということではありえない。一方で言語とはことなり、感覚は他人の感覚を知ることができない以上、文法的に私的となりうる。

最後に、意味とは何か。言語におけるその語の使用である。そして意味盲とは、その語だけを与えられたときに複数の意味を見ることができない人たちのことである。あるいは相貌盲人という人はウサギ・アヒルの反転図形を、反転体験を起こせない人たちのことである。この人たちはいずれも、内的関係(本質)を把握することができない、「本質直観」に問題を抱える。しかしこうした意味体験は、言語を使用する際には重要性を持たない。通常はこうした「夢」を見ずに語られる。意味盲人とはすなわち、どんな場合にも夢を見ずに語る人のことと言える。

ウィトゲンシュタインは今際の際に、それでも信じることについての意義を語った。たとえば神を信じることには、行為における差異を生み出す。では、差異がない場合には? 信じても疑ってもない場合には? これは不可思議な話である。

読後感は面白かった。永井均の筆致は、必ずしも全面的にウィトゲンシュタインに平伏しているわけではないスタンスで、しかし今こうして改めて振り替えると、同じところをグルグル回っているような、進んでいるような、動いてしかいないような、そしてウィトゲンシュタインが自分だけを特別な位置にいることに対する批判的な気持ちをも抱いた。

 

ウィトゲンシュタイン入門 (ちくま新書)

ウィトゲンシュタイン入門 (ちくま新書)

 

 

宮下雄一郎『フランス再興と国際秩序の構想 第二次世界大戦期の政治と外交』

本書は、サントリー学芸賞(2017年)を受賞した。政治学を専門にする人間にとってはトップに属する権威を有しており、受賞者は錚々たる面々が並んでいる。基本的には本格的な研究書に贈られるものであり、本書は慶應大学に提出された博士論文をベースとしているらしい。多くの場合、研究者の著作は博士論文こそ最もよく練られたものと言われるが、多分に漏れず、かなり豊潤な研究内容が濃厚なまでに盛り込まれている。

 『フランス再興と国際秩序の構想 第二次世界大戦期の政治と外交』というタイトルだが、外交史の博士論文であるため、扱う時期は狭く、1940年~1945年の自由フランスがテーマである。すなわち、フランスがドイツに敗北してド・ゴールがロンドンに亡命した後、ヴィシー政権とは異なり、ドイツとの抗戦を続けた彼らがどのように第二次大戦において戦後国際秩序を構想し取り組んでいったのか、が主眼である。ゆえに、自由フランスが、あるいはその他の「フランス人」が、どのようにあの時代においてドイツと戦ったか、などは射程外である。外交史の、戦後構想に範囲を絞っており、それ以外はさらっとで簡単に済ませるので、ある程度、「それは分かってるよね」というスタンスがきつく、こちらの力量が足りないとすぐに置いてかれる可能性があることには気を付けなければならない。特に大量の人物名が出てくるので、私程度の生半可な知識だと直ぐに、あれ誰だっけこれ、と振り返り振り返り読み進めることになってしまう。

内容は以下の川嶋周一先生による書評に詳しい。 

【書評】宮下雄一郎著『フランス再興と国際秩序の構想』(勁草書房、2016年) | 政治外交検証 | 東京財団

さすがの川嶋先生(川嶋先生自体は、もう十数年後の独仏関係史を博論に書いている。これもめちゃくちゃ面白い)であるので、付記する情報は特にない。

川嶋先生が6~7章が白眉だと書いているが、個人的には5章のあたりも非常に面白かった。ド・ゴールは戦後フランス、あるいは戦後のヨーロッパ統合の文脈で圧倒的な存在感を示しているので、我々はド・ゴールのフランス、というのをさも当然のごとく、必然であったかのように語るが、彼が「フランス」の権力者として認められたのは薄氷の上を跳び跳ねるくらいの、多くの困難を乗り切った後のことだった。正統性の面ではヴィシー政権に勝てるはずもなく、また他の欧米列強から嫌われていたド・ゴールは自由フランスにおいてさえ、ダルランやジローといったライバルがいるなかでは簡単には認められなかった。戦局が変わり、ようやく国内における支持基盤が第5章になって固まり、さてようやく戦後構想について考える余裕が出てきた。じゃあどのような絵を描こうと、うんにゃらまんにゃらしているのが第6章である。中小国とのコミュニケーションを密にして、西ヨーロッパ統合の構想を抱き、戦後は大国協調にせんとする英米の流れに対して、フランスは、大国の一として、かつ中小国の代弁者として棹を差し、そして第7章にして、頓挫した。(後味の悪い「勝利」)

結びにおいて、本書が喝破したこととして、フランスの、ド・ゴール地域主権の考えが欧州統合に繋がった、とする一般的な意見に対し、むしろアメリカ主導の戦後の普遍的国際機構構想を前に挫折し、一旦は消え去ったものだったことを示したのだと挙げる。

しかしそれではあまりにもションボリだ。一方でその後、実際にはヨーロッパ統合は進んだ。川嶋先生も書く通り、単に一旦消え去ったのだと言っても、では戦後の統合には繋がったのか、全く断絶しているのか、西ヨーロッパ統合構想をどう評価すれば良いのか、もう少し先を見据えた指針が欲しかった。

そしてこのあと、ド・ゴール愛国主義的な姿勢によって超国家的な統合が否決されていく有り様が川嶋先生によって描かれるわけで、何とも皮肉である。

 https://www.jstage.jst.go.jp/article/kokusaiseiji1957/2008/152/2008_152_184/_pdf&ved=2ahUKEwiJwNixg7_ZAhUPObwKHa5vBwU4FBAWMAV6BAgAEAE&usg=AOvVaw0wsbj3OKDTQjPGkwbZMgeZ

 

 

フランス再興と国際秩序の構想: 第二次世界大戦期の政治と外交

フランス再興と国際秩序の構想: 第二次世界大戦期の政治と外交

 

 

ジョン・ケイ『金融に未来はあるかーーーウォール街、シティが認めたくなかった意外な真実』

原題はOther People's Money、他人の金(副題 金融の実際のビジネス)。邦題は無闇に扇情的でかつダサいと思うのだが、こういうタイトルをつけないと売れないという出版社の判断なのだろう。まるで洋楽のアルバムのダサい邦題みたいだ。

さて本書は、FTなどのコラムニストにして、色々なビジネススクールの教授でもあり、英国政府やスコットランドのアドバイザーも勤めた経歴の持ち主であるジョン・ケイ氏によって2015年に執筆された。

A Financial Times Book of the Year, 2015
An Economist Best Book of the Year, 2015
A Bloomberg Best Book of the Year, 2015

に選ばれており、高く評価されていることがよく分かる。日本では、ジョン・ケイ氏が2012年に英国政府に提出した、ケイ・レビューと呼ばれる英国株式市場の調査レポートについて、金融庁が参考にしているということから俄に注目が集まった。昨今、皇帝・森金融庁長官による金融(庁)改革が進められているが、金融(庁)関係者はこういった参考文献を読みながら、お上が何を考えているかを先読みした忖度が始まっている。

そんな本書であるが内容は概ね以下にまとめられると思う。

 

・金融機関は表面的には儲かってるように見えるが、最近のマーケット取引に基づく収益は無為だ。昔の銀行は、街の名士として金貸しだけをやっていて良かった。今では、マーケット商品を作り出して販売するくせに、経済のファンダメンタルズを無視して、他人の予想はこのあたりに収斂するだろう、ということの分析ばかり行っている。結果、 実際のリスクはどのくらいで、誰が負っているか分からなくなっている。結局最後には誰かが損する仕組みになっており、金融危機時には結局リスクを抱えていた金融機関を税金で救っただけで、そもそも金融機関は儲かってすらいないのではないか。

・だいたい金融機関は無駄に複雑化し、例えば訳の分からない不動産に係る証券化商品を作っても、実際の不動産自体については認識が甘いし、本来果たすべき中小企業に対する融資の目利きだって出来ない。金貸しという本懐から離れて、無駄にROEばかり気にするあまりにデリバに現を抜かしてしまった結果、自分でリスクをとらず、他人に複雑な商品を売り付けて満足するようになった。個人の決済機能はレベルアップさせないくせに。これでは個人には何も還元されないではないか。個人向けについては金融機関は、ブラックロックよろしく、信頼された資産運用会社になるべきだ。。

 ・金融機関はどうなるべきか。個人部門と投資銀行は切り離し、どんどん細分化、隔離と専門化をすべきであり、個人向けはシンプルに、金融機関同士の取引は削減し、やらかした奴には直接の取引先だけでなく、間接的な仲介業者も、そしてやらかした本人にも罪を負わせるべきだ。課徴金はつまりは他人から捲り上げた他人の金でしかない。金融機関は古きよき時代に戻るべきだ。

 

しかし上の内容を抜群の筆致で、様々な喩え、皮肉を駆使しながら描いていくあたりは、さすがFTのコラムニストである。内容はやや専門的なものも含まれているが、いくつかの見事な比喩はその理解をざっくりと深めるのに役立つ。

ある程度マーケットが分かっている人間にとっては、よっぽど筋の悪い人でなければ自明に思える部分も多いのではなかろうか。第一部はいわゆるケインズの「美人投票」についてだ。これはマーケットの本質であり、概ね理解できる(どうしようもない問題である一方で、だからと言ってファンダメンタルズを全く無視しているわけでもない)。第二部は複雑化した商品と、リスクを他人に委ね、個人への責任を放棄した金融機関への批判だ。ここも、セルサイドが収益をぼったくってアホなバイサイドに売り付ける構図や、儲からない決済機能(SWIFTとか)のローテクぶりなど、分かる話が多いだろう。それをここまで包括的に描いているのだから見事である

テクニカルには細々と言いたいことがあるが、大きく一つだけ言わせてもらうと、金融危機の描写についてこれだけ説明しているのに、金融危機以降の対応についての記載がほとんど無いことだ。認識はしているはずだが、そのうえでバーゼル3は不足、の一言で片付け、デリバに対する中央清算機関の話題も見当たらない。投資商品もかつてよりまともになった。せっかくの日進月歩の改革を忘れてゼロベースで話すことは、やや不適切にも感じる。

翻って、本書を日本の反省材料とすべきであろうか。我々は森長官ほどピュアではないので、事はそう簡単でないと考えるべきだろう。メガバンク、地銀は英国の状況と等しいのか、同じ解決策で同じ結果を産み出せるのか、そもそもこの提言は叶うべきものであるのか、そのあたりの不毛な作業は優れた金融庁職員に頑張ってもらおう。

 

金融に未来はあるか―――ウォール街、シティが認めたくなかった意外な真実