永井均『ウィトゲンシュタイン入門』

ウィトゲンシュタインに入門してみた。

我らが(?)永井均先生による、入門本。哲学徒ではないので解釈の是非を問うつもりはないが、あの永井均の仕事、として考えるとオーソドックスな入門書になってるのではないかと思う。

冒頭の序章こそ、永井均個人が幼少の頃から感じていた疑問、「私はなぜ、今ここにこうして存在しているのか」という問いに対して、ウィトゲンシュタイン独我論こそが自分と同じ悩みにぶち当たってくれたという共感から始まる。何とも客観性に乏しい記載であり、そして難解。しかし一方でウィトゲンシュタインの取り組んだ独我論が一貫したイシューではないという説明から、後々の内容を要約する段になると、引き続き難解だが真っ当な説明が始まる。

一章からはもっと穏当である。ウィトゲンシュタインの生い立ちから、その頃取り組んでいたテーマが平行して語られる。

前期ウィトゲンシュタインとは最も華々しい時期である。つまり、『論理哲学論考』を著し、かの有名な「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」というアレが飛び出した。これはどういう意味なのだろうか、それを説明するのが最初のテーマである。

『論考』のウィトゲンシュタインによれば、すべての命題は、事態の写像である要素命題へと分析できる。そしてこの構成は真理関数に基づくわけだが、これはトートロジーである。すなわち論理は、外部からそれについて語るメタ理論を持ちえないのであり、それゆえに論理は先験的、つまり経験的な事実に先立ち世界と言語の形式を示していなければならない。ここでルイスキャロルの寓話「亀がアキレスに語ったこと」が引かれるが、それは「Aと、AならばB、からBを導くことができる」という前件肯定式から、Bを受け入れなければならないかと言うと、そこには、「Aでありかつ「AならばB」であるならばBである」というPの論理法則がないと完成しない、結局果てしない問答になってしまう、というものだ。こうして、『論考』の諸命題は世界を正しく見ることを助けるための、一時的な方便でしかなくなり、自然科学の命題以外には語りえぬこととなるのだ(『論考』を除いて)。また、語りえぬものとは、こうした世界の形式そのものであるがゆえに語りえぬ先験的なもの、とは別に、世界の外にあるがゆえに語りえぬ超越論的なもの、がある(トランスツェンデンタール)。そして、「言語」という先験的なものと、「私」という超越論的なものが、「私の言語の限界は私の世界の限界を意味する」という形で統一される。さすれば主体は世界に属さなくなる。こうして独我論は設定された。

そこからウィトゲンシュタインの人生の描写とともに中期が始まる。論理を否定し、文法へと変化していった時期である。二メートルである、ゆえに三メートルではない、といった推論を鑑みた際、要素命題は独立ではありえない。相互に関係しあう。一方で、黒いものについて、それによって騒がしいことを語ることは、その語り方において空間を取り違えている。命題において、意味を知っていることは検証方法を知っていることであるという立場を取ると、文法規則の提示こそが検証条件の指定に、そして意味へと繋がっていく。逆に、検証の方法が違えば命題も異なる。検証は命題を、それを検証する現象記述命題へと内的に関係づけられ、こうした記述は、文法規則としてのみ立てられるのだ。こうして意味とは何か、ものごとの本質とは何か、などと考えても、全てが文法の内部に留まるしかなくなるのである。全ては文法である、に対するあらゆる反論すらも文法でしかありえない。では現象はどのように捉えられるかというと、もはや現象は検証主義的である以上は放棄され、代わりに規準(目印)にとって代わられることになった。たとえば雨が降っているという視覚印象があったとして、これは雨が降っていることの規準になる。あるいは志向もまた言語によって可能たらしめられる。しかし、では何故語の意味は、それでありうるのか。どうして皆が同じように振る舞いうるのか。そこには規則ではなく、慣習(プラクティス)に従うという言語ゲームへの萌芽がある。

そして、後期ウィトゲンシュタイン言語ゲームについて語る。言語とそれが織り込まれる諸活動の総体が言語ゲームと名付けられるが、例えば、「赤いリンゴ五個」とある紙片を持って果物屋に行ったらリンゴ五個が買える。これはよく考えたら不思議なことで、言語の解釈もなくリンゴを買えるのは、そのような慣習を生きているから、であり、生き方という語られることのない生活形式のなかに言語ゲームはある。言葉の意味とは、心の中にはなく、生活の形式に他ならない。そこに本質的な特徴など存在しない。そしてルールこそがゲームのプレイを、ではなく、無根拠なゲームこそがこの規則を存立たらしめる。チェスのゲームとルールの関係を考えるとよい。しかし無根拠に適用される規則とは、それについての規則があっても、それについての規則が、そしてまた規則が…と行為に辿り着かない。そうして最後には実例による訓練と慣習のみが残る。偶然とみなされるものごとが、歴史の審判を経て正しさは決定される。そうして規則に従うこととは、実践に他ならない。それに従うと信じることは信じるという規則を必要とする以上、私的に従うということではありえない。一方で言語とはことなり、感覚は他人の感覚を知ることができない以上、文法的に私的となりうる。

最後に、意味とは何か。言語におけるその語の使用である。そして意味盲とは、その語だけを与えられたときに複数の意味を見ることができない人たちのことである。あるいは相貌盲人という人はウサギ・アヒルの反転図形を、反転体験を起こせない人たちのことである。この人たちはいずれも、内的関係(本質)を把握することができない、「本質直観」に問題を抱える。しかしこうした意味体験は、言語を使用する際には重要性を持たない。通常はこうした「夢」を見ずに語られる。意味盲人とはすなわち、どんな場合にも夢を見ずに語る人のことと言える。

ウィトゲンシュタインは今際の際に、それでも信じることについての意義を語った。たとえば神を信じることには、行為における差異を生み出す。では、差異がない場合には? 信じても疑ってもない場合には? これは不可思議な話である。

読後感は面白かった。永井均の筆致は、必ずしも全面的にウィトゲンシュタインに平伏しているわけではないスタンスで、しかし今こうして改めて振り替えると、同じところをグルグル回っているような、進んでいるような、動いてしかいないような、そしてウィトゲンシュタインが自分だけを特別な位置にいることに対する批判的な気持ちをも抱いた。

 

ウィトゲンシュタイン入門 (ちくま新書)

ウィトゲンシュタイン入門 (ちくま新書)

 

 

宮下雄一郎『フランス再興と国際秩序の構想 第二次世界大戦期の政治と外交』

本書は、サントリー学芸賞(2017年)を受賞した。政治学を専門にする人間にとってはトップに属する権威を有しており、受賞者は錚々たる面々が並んでいる。基本的には本格的な研究書に贈られるものであり、本書は慶應大学に提出された博士論文をベースとしているらしい。多くの場合、研究者の著作は博士論文こそ最もよく練られたものと言われるが、多分に漏れず、かなり豊潤な研究内容が濃厚なまでに盛り込まれている。

 『フランス再興と国際秩序の構想 第二次世界大戦期の政治と外交』というタイトルだが、外交史の博士論文であるため、扱う時期は狭く、1940年~1945年の自由フランスがテーマである。すなわち、フランスがドイツに敗北してド・ゴールがロンドンに亡命した後、ヴィシー政権とは異なり、ドイツとの抗戦を続けた彼らがどのように第二次大戦において戦後国際秩序を構想し取り組んでいったのか、が主眼である。ゆえに、自由フランスが、あるいはその他の「フランス人」が、どのようにあの時代においてドイツと戦ったか、などは射程外である。外交史の、戦後構想に範囲を絞っており、それ以外はさらっとで簡単に済ませるので、ある程度、「それは分かってるよね」というスタンスがきつく、こちらの力量が足りないとすぐに置いてかれる可能性があることには気を付けなければならない。特に大量の人物名が出てくるので、私程度の生半可な知識だと直ぐに、あれ誰だっけこれ、と振り返り振り返り読み進めることになってしまう。

内容は以下の川嶋周一先生による書評に詳しい。 

【書評】宮下雄一郎著『フランス再興と国際秩序の構想』(勁草書房、2016年) | 政治外交検証 | 東京財団

さすがの川嶋先生(川嶋先生自体は、もう十数年後の独仏関係史を博論に書いている。これもめちゃくちゃ面白い)であるので、付記する情報は特にない。

川嶋先生が6~7章が白眉だと書いているが、個人的には5章のあたりも非常に面白かった。ド・ゴールは戦後フランス、あるいは戦後のヨーロッパ統合の文脈で圧倒的な存在感を示しているので、我々はド・ゴールのフランス、というのをさも当然のごとく、必然であったかのように語るが、彼が「フランス」の権力者として認められたのは薄氷の上を跳び跳ねるくらいの、多くの困難を乗り切った後のことだった。正統性の面ではヴィシー政権に勝てるはずもなく、また他の欧米列強から嫌われていたド・ゴールは自由フランスにおいてさえ、ダルランやジローといったライバルがいるなかでは簡単には認められなかった。戦局が変わり、ようやく国内における支持基盤が第5章になって固まり、さてようやく戦後構想について考える余裕が出てきた。じゃあどのような絵を描こうと、うんにゃらまんにゃらしているのが第6章である。中小国とのコミュニケーションを密にして、西ヨーロッパ統合の構想を抱き、戦後は大国協調にせんとする英米の流れに対して、フランスは、大国の一として、かつ中小国の代弁者として棹を差し、そして第7章にして、頓挫した。(後味の悪い「勝利」)

結びにおいて、本書が喝破したこととして、フランスの、ド・ゴール地域主権の考えが欧州統合に繋がった、とする一般的な意見に対し、むしろアメリカ主導の戦後の普遍的国際機構構想を前に挫折し、一旦は消え去ったものだったことを示したのだと挙げる。

しかしそれではあまりにもションボリだ。一方でその後、実際にはヨーロッパ統合は進んだ。川嶋先生も書く通り、単に一旦消え去ったのだと言っても、では戦後の統合には繋がったのか、全く断絶しているのか、西ヨーロッパ統合構想をどう評価すれば良いのか、もう少し先を見据えた指針が欲しかった。

そしてこのあと、ド・ゴール愛国主義的な姿勢によって超国家的な統合が否決されていく有り様が川嶋先生によって描かれるわけで、何とも皮肉である。

 https://www.jstage.jst.go.jp/article/kokusaiseiji1957/2008/152/2008_152_184/_pdf&ved=2ahUKEwiJwNixg7_ZAhUPObwKHa5vBwU4FBAWMAV6BAgAEAE&usg=AOvVaw0wsbj3OKDTQjPGkwbZMgeZ

 

 

フランス再興と国際秩序の構想: 第二次世界大戦期の政治と外交

フランス再興と国際秩序の構想: 第二次世界大戦期の政治と外交

 

 

ジョン・ケイ『金融に未来はあるかーーーウォール街、シティが認めたくなかった意外な真実』

原題はOther People's Money、他人の金(副題 金融の実際のビジネス)。邦題は無闇に扇情的でかつダサいと思うのだが、こういうタイトルをつけないと売れないという出版社の判断なのだろう。まるで洋楽のアルバムのダサい邦題みたいだ。

さて本書は、FTなどのコラムニストにして、色々なビジネススクールの教授でもあり、英国政府やスコットランドのアドバイザーも勤めた経歴の持ち主であるジョン・ケイ氏によって2015年に執筆された。

A Financial Times Book of the Year, 2015
An Economist Best Book of the Year, 2015
A Bloomberg Best Book of the Year, 2015

に選ばれており、高く評価されていることがよく分かる。日本では、ジョン・ケイ氏が2012年に英国政府に提出した、ケイ・レビューと呼ばれる英国株式市場の調査レポートについて、金融庁が参考にしているということから俄に注目が集まった。昨今、皇帝・森金融庁長官による金融(庁)改革が進められているが、金融(庁)関係者はこういった参考文献を読みながら、お上が何を考えているかを先読みした忖度が始まっている。

そんな本書であるが内容は概ね以下にまとめられると思う。

 

・金融機関は表面的には儲かってるように見えるが、最近のマーケット取引に基づく収益は無為だ。昔の銀行は、街の名士として金貸しだけをやっていて良かった。今では、マーケット商品を作り出して販売するくせに、経済のファンダメンタルズを無視して、他人の予想はこのあたりに収斂するだろう、ということの分析ばかり行っている。結果、 実際のリスクはどのくらいで、誰が負っているか分からなくなっている。結局最後には誰かが損する仕組みになっており、金融危機時には結局リスクを抱えていた金融機関を税金で救っただけで、そもそも金融機関は儲かってすらいないのではないか。

・だいたい金融機関は無駄に複雑化し、例えば訳の分からない不動産に係る証券化商品を作っても、実際の不動産自体については認識が甘いし、本来果たすべき中小企業に対する融資の目利きだって出来ない。金貸しという本懐から離れて、無駄にROEばかり気にするあまりにデリバに現を抜かしてしまった結果、自分でリスクをとらず、他人に複雑な商品を売り付けて満足するようになった。個人の決済機能はレベルアップさせないくせに。これでは個人には何も還元されないではないか。個人向けについては金融機関は、ブラックロックよろしく、信頼された資産運用会社になるべきだ。。

 ・金融機関はどうなるべきか。個人部門と投資銀行は切り離し、どんどん細分化、隔離と専門化をすべきであり、個人向けはシンプルに、金融機関同士の取引は削減し、やらかした奴には直接の取引先だけでなく、間接的な仲介業者も、そしてやらかした本人にも罪を負わせるべきだ。課徴金はつまりは他人から捲り上げた他人の金でしかない。金融機関は古きよき時代に戻るべきだ。

 

しかし上の内容を抜群の筆致で、様々な喩え、皮肉を駆使しながら描いていくあたりは、さすがFTのコラムニストである。内容はやや専門的なものも含まれているが、いくつかの見事な比喩はその理解をざっくりと深めるのに役立つ。

ある程度マーケットが分かっている人間にとっては、よっぽど筋の悪い人でなければ自明に思える部分も多いのではなかろうか。第一部はいわゆるケインズの「美人投票」についてだ。これはマーケットの本質であり、概ね理解できる(どうしようもない問題である一方で、だからと言ってファンダメンタルズを全く無視しているわけでもない)。第二部は複雑化した商品と、リスクを他人に委ね、個人への責任を放棄した金融機関への批判だ。ここも、セルサイドが収益をぼったくってアホなバイサイドに売り付ける構図や、儲からない決済機能(SWIFTとか)のローテクぶりなど、分かる話が多いだろう。それをここまで包括的に描いているのだから見事である

テクニカルには細々と言いたいことがあるが、大きく一つだけ言わせてもらうと、金融危機の描写についてこれだけ説明しているのに、金融危機以降の対応についての記載がほとんど無いことだ。認識はしているはずだが、そのうえでバーゼル3は不足、の一言で片付け、デリバに対する中央清算機関の話題も見当たらない。投資商品もかつてよりまともになった。せっかくの日進月歩の改革を忘れてゼロベースで話すことは、やや不適切にも感じる。

翻って、本書を日本の反省材料とすべきであろうか。我々は森長官ほどピュアではないので、事はそう簡単でないと考えるべきだろう。メガバンク、地銀は英国の状況と等しいのか、同じ解決策で同じ結果を産み出せるのか、そもそもこの提言は叶うべきものであるのか、そのあたりの不毛な作業は優れた金融庁職員に頑張ってもらおう。

 

金融に未来はあるか―――ウォール街、シティが認めたくなかった意外な真実
 

 

学園祭学園『嘘』

この曲が初めて世に出たのは、声優の浅沼晋太郎さんが参加する劇団bpmの舞台「TRINITY」の主題歌としてだった。その後、「アコギな夜」という学園祭学園がトリを務めるイベントで生演奏が披露された後、10月のヨルナイトフェスにて手売りでの販売が始まった。GRAPEVINE好きな感じがよく伝わる青木佑磨ソロ『逆様の顛末』から、学園祭学園『ユープケッチャ』と徐々に音源はポップに洗練されていき、そして本作「嘘」は、鷲崎健楽曲にも携わる杉浦"ラフィン"誠一郎をアレンジに迎え、聞きやすさが一段と改善されている。ライブでの音源を聞いていて、狭いライブハウスでの演奏ということも影響してだと思うが、もっと音数の多い印象だったので、CDを一聴して感じたのは、思ったより音が薄いアレンジになったな、という感覚だった。一方で鷲崎さんはヨルナイトのラジオで、思ったよりも早かった、という感想を述べており、もちろん自分の頭で描いていたもっと激しい印象が正解という訳ではない。編成が、ベース、ドラム(TRINITYバージョンでは生ドラムですらない)、パーカッション、アコギ、エレキギター(サポートメンバー)の五人だが、ライブと比べるとアコギを減らして、"ラフィン"さんのピアノが増えているだけで、もっと音を重ねられた中で恐らく意図的にシンプルな音作りに徹している。個人的にはもうちょっとガチャガチャやってくれた方が好みだったけど。

しかし本作の最大の名曲は4. gsgarchives_02だった。アコギな夜2016年1月(と言っていたと思う)の音源で、延々と酷い下ネタを交えた「複合謎掛け」を喋り続けている。とてもライブ中とは思えない長尺でのトーク(いつものこと)で、これが本当は間のもっと酷い部分を省略しているというのだから、その圧倒的なライブパフォーマンスぶりが察せられる。超ラジにゲスト出演した頃(逆様の顛末の頃)、或いはPOARO大喜利をやっていたとき、青木佑磨さんという人物が、こんなに面白いとは到底思わなかった。学園祭学園か、ヨルナイトという環境以外でも輝くのか、注目している。

嘘

 

 

坂上秋成『TYPE-MOONの軌跡』

みんな大好き、TYPE-MOONのこれまでの歴史をまとめた本。とても簡単にまとめられており、Wiki +α程度の情報量が収められている。情緒不安定な奈須きのこが、武内崇ほか、様々な周りの大人にプッシュされてスターダムまで駆け上がっていく様子が描かれる一方、空の境界月姫Fate/Stay nightについての、坂上秋成というライターによる、分析というには弱く、あらすじというには不要な、誰でも辿り着ける程度の批評が入っており、焦点が定まらない。ネタバレとしての線引きも曖昧で、ここからネタバレあるよ、という指示があったりなかったり、というのもよく分からない。公式によるまとめという点では、まぁ、一冊くらいは存在することは良いこととも思うが。もうちょい。

TYPE-MOONの軌跡 (星海社新書)

TYPE-MOONの軌跡 (星海社新書)

 

 

グレアム・アリソン『米中戦争前夜 新旧大国を衝突させる歴史の法則と回避のシナリオ』

 グレアム・アリソン『決定の本質』は名著だった。初版も第二版も読んだはずなのだが、初版を読んだのがはるか昔であまり違いについては言及できないものの、読んだときのドキドキワクワク感は忘れられない。どうしてキューバ危機はああいう形になったのか、核戦争を回避できたのか、についての謎を解くため、必要に応じて、複層の分析視覚を我々に提供してくれた本書は、学術書に対する感想としては不適切かもしれないが、良い研究とは、極上のミステリーよりもハラハラするものだと教えてくれた。

残念ながらグレアム・アリソンは、外交における政策決定過程の大切さを伝えてくれた後は、残念だった。もちろん、著作はあり、『核テロ』は日本語訳もされているが、決定的な仕事があるわけではない。様々なエッセイを通じて我々素人に国際関係を教示してくれる人物だった。

で、本書。トゥキディデスの罠と名付けられた、覇権国と新興国は戦争しがち、というだけの、百万回言われている議論を準えた概念を通じて、アリソンは、同じく我々素人向けに国際関係の啓蒙をしてくれている。アリソンと同じくハーバードの有名人ジョセフ・ナイもまた、名著『国際紛争』にて「はじめにツキュディディスあり(訳がこうだったか記憶が怪しいけど…)」と述べているように、スパルタとアテネが戦ったペロポネソス戦争とは基本にして、人間とは常に同じような行動を取り続けるという原則に基づく限り、全てでもあるのだ。これは私も同意するところであるし、同時に、別にペロポネソス戦争でなければいけないわけでもないこともまた確かであろう。

 本書の構成は、中国の台頭について今更ながら(今更ではあるが、みんなまだ信じてないよね、と言い訳を重ねながら)説明した後、ペロポネソス戦争とはどうやってアテネとスパルタの戦争になったのか、直近500年にどのような覇権入れ替わりに基づく衝突があったのか(あるいは回避したのか)、その中でも第一次世界大戦とはどのように起こったのか、と過去の事例を見る。そして、大国志向を持つ中国によって、あるいは自己融雪意識の強い両大国によって、どのように米中は揉め、戦争可能性が高まっているか、を描く。ここでは戦争の勃発をシミュレートしているが、戦争はある種、偶発的に発生する。そして最後に、過去の衝突回避事例を教訓だと言い張ってヒントを授けてくれている。その教訓とは、スペインとポルトガルローマ教皇という高い権威によって戦争が防がれたんだから高い権威を設定すべきとか、独仏が戦争をしなかったのはEUという上位の組織があったからだと上位組織の形成を奨めたりとか、英米の衝突回避事例から賢いリーダーを擁するべきとか、特別な関係があると良いだとか、大変示唆的なヒントを授けてくれるのだ。なら、やってみろ。

様々な批判が思い浮かぶ。そして本書は、巻末のたった2ページでそのすべてを粉砕する。自分の目についた西洋の、たった32ヵ国だけを見て何になるんだと思っても、「それは百も承知である。統計分析が目的ではない」とか、事例の説明が雑すぎると思っても、「それは百も承知である。事例の因果関係を説明したいのではない、描写をしてるだけだ」とか、百万回言われてることを何を今更と思っても、「それは百も承知である。しかし先人も解決できていない」だとか、簡潔に、的確に、そして無意味に反駁をしてくれる。学術書ではないから厳密さは不要だし、それは注釈を見ても最新の論文は少なく、そもそも参照する中国研究は中国語は達者ではない著者によるものだ。また、これまでの覇権循環論に対して、すべて先人のやってきた解決策を繰り返すのだから、評論本としてもあまり有意義とは思えない。

しかし長らく政権に入って外交のアドバイスをし続けたアリソンが書いている、というだけで意味はある。アメリカ人は何を考えているのか、を見極めるヒントになるからだ。ここでアメリカが採り得るオプションは4つあり、新旧逆転を受け入れて「こっちは譲歩するからここはダメだよ」と交換条件を設定するか、中国を弱らせるか、長期的な平和を交渉するか、米中関係を再定義するか(共通のグローバルな問題に対処するための協力関係)、らしい。

言い換えれば、驚くべき策などどこにも存在しないのだ。

 

米中戦争前夜――新旧大国を衝突させる歴史の法則と回避のシナリオ

米中戦争前夜――新旧大国を衝突させる歴史の法則と回避のシナリオ

 

 

小倉和夫、康仁徳『朝鮮半島 地政学クライシス 激動を読み解く政治経済シナリオ』

 前回、ウォルツ、セーガン『核兵器の拡散』についてのエントリを書いてから、引き続き我が国の西方が騒がしいままである。

と言っても、ほとんどが我が国を飛び越してやり取りされているので、東西に挟まれて我が国はなすすべなく、手で頭を押さえてしゃがみ込むくらいが関の山なのだが。。。

テレビは平常通りとして、最近ではTwitterでも素人時事政談が繰り広げられ、皆が皆、私は北朝鮮の思惑が分かってますというしたり顔で語るものだから、食傷気味どころか完全に下痢になってしまった。基本は、<平和ボケをしている間にこんなになってしまった>、<どうして日本人はこうまで平和ボケで、本当の戦争を知らなくて>、、、という自称リアリスト達の悲観的な笑顔ばかりが目に付くのだが、残念ながら「本当の戦争」なるものを知っている人は、そもそも世界的に見てほぼいない。どの視点で見ても、何が起きていて、これから何が起こるのか、など本当のところは分からない。況してや当事者であればあるほど、冷静な分析・観察はできない。 

さて本書は、日米中露韓の朝鮮研究者(東アジア研究者)が揃って、かの問題に様々な視点から取り組んでいる。怎、日本人は日本から見た北朝鮮についてしか知らない。だから例えば、北朝鮮と中国が常に歩を同じくをすると勘違いする人すらいるが、当然のことながら現実的ではない。中国にとって、北朝鮮を見捨てるというのも選択肢の一つにあることは十分に合理的であるはずなのだが、中国側の視点が欠けるとそれすら考えられなくなる。中国人研究者である姜龍範の論文は、中国側から見たら地政学的要地であり、しかし制御できない北朝鮮、という両面があることを描き出す。そういった風に、複数の立場から語られるということは、それ以外の立場である人間からは見えないものが見えることがママある。これらを上手く統合できれば、随分と奥行きのある景色になってくる。

あるいは、核のエスカレーションについて米朝相互の動きをきちんと史的に追いかけることも出来ずに、今回の発射にばかり視線をやってしまうのも問題であろう。三代目個人のパーソナリティがそのまま北朝鮮と言う国家の動きな訳がない。勿論、初代、二代目からの経緯があるはずである。どうして、一度は沈静化した核開発を復活させるに至ったのか、を理解することは、彼らのインセンティブ自体を把握するのに有用だろう。

当たり前のことだが、ある国家(北)のインセンティブは別の国家(米)の動きに刺激された結果、ということが大いにある。一方で、別の国家(米)の動きは、勿論ある国家(北)の動きのみに由来するはずもない。それとはまた別の国家の動きであったり、国内、大統領のパーソナリティ、全てが影響する。倉田秀也論文は、核開発の流れについて、主に米朝平和協定と非核化、という観点から組み立て直しており、米朝中の視点を織り交ぜて叙述することで、その当たり前の前提を思い出させてくれる。

プログラムとしては、以上の通り、地域、歴史の両面から北朝鮮を立体的に描こうという試みであり、評価に値する。一方で内容は玉石混交の論文集であり、ベテランであっても、あ~手抜きしてるな、というのが分かるのもちらほらある。何より、注釈のつけ方がまちまちなので、どれがどこから判断された事実であるのかが読者には追いづらくなってるのが残念である。うまく抜き出して読めれば有用なのだが…。もう一歩、物足りない。