スコット・セーガン、ケネス・ウォルツ『核兵器の拡散』

最近、何やら我が国の西の方で、核兵器の話題が騒がしい。

ところで国際関係論の世界で核兵器の話題と言ったら、核抑止の話か、核拡散の話の二択に大別できる。しかし実質的には同じ話題かもしれない。

そもそも核についての話題は通常戦力とどう "質的" に異なるのか、というのは簡単ではない。通常戦力にも抑止能力はあるわけで、核抑止とはその延長線上、強化版と言ってもいい。一方で、核兵器と通常戦力は絶対的に区別されて議論されているのも間違いない。さて、核兵器と通常戦力は何が違うのか。

一番の違いはその破壊力である。何を当たり前のことを言ってんだバカ、と馬鹿にされそうだが、待ってほしい。もうちょっと聞いてほしい。

まず通常戦力では原則、攻撃されて自分たちがすぐさま全滅するかもしれない、という懸念を抱くことはほぼない。ツキュディデスのメロス島の時代ではないのだ(メロス島の場合は無条件降伏したうえで男が全員処刑されているのでもっと悲惨であるが…)。現代において、攻撃しあって被害が出ることはあっても、だからといって滅ぶことはそうそうないし、況してやたとえ片方の国が滅んでも両方が滅ぶことはない。

それが核兵器となると、話が違う。何たって、考えなしに射てば核で反撃されて、そして自分たちが滅ぶ。確信できる。それこそが相互確証破壊、破壊がassuredされた状態なのだ。ナイの言うところの、水晶効果とも言われる、滅ぶ未来が簡単に予見されるのだ。これは核兵器の時代に初めて生まれた事態だろう。理屈上は通常戦力でも滅びうる(例えば双方が文字通り死力を尽くし、どっちも負けのような状態に陥る等)のだが、相互に全滅が確実、というのはあまり現実的でない。

核拡散に戻ると、拡散した核は相互に破壊しうる関係の国々を増やす。それは相互に、核によってどんどん抑止された状態とも言える。その意味で核拡散の話題は核抑止の亜種のようなもので、通常戦力が途上国に拡散するときと話の焦点が異なることが分かる。つまり、通常戦力では大国側が滅亡することは想定されず、力が絶対的に抑止されることはない。ちょっと途上国や小国が通常戦力を強化したところで、大国が本気を出せばすぐに潰せる。それはイラクですら、である(統治が出来るかどうかはまた別の論点である)。一方で核兵器では、大国であっても小国でも対等にお互いに滅ぼしうる能力を持つことになる。普通に考えれば恐ろしい話だ。

ケネス・ウォルツはそれに対し、核拡散が進行すればするほど、抑止関係も拡散するのだから、核拡散は世界の安定にとって望ましいと主張した。我が国で核兵器について議論をすれば、「どうやって核の拡散を抑えられるか」とか「核は撲滅すべきだ」という左翼界隈と、「日本も核兵器を持つべきである」「せんごれじーむからのだっきゃく」という右翼界隈の一生噛み合わない議題しかないのだが、さすがにアメリカ人は視点が違う。対してスコット・セーガンは反論していて、「いやいや、偶発的な事故とかあるでしょ」「小国とかに拡がるのは流石にやばくない?」とか様々言う。現実的にはセーガンの方が直観的に真っ当なことを言っているようにしか見えないし、ウォルツはおかしいとしか思えないのだが、しかし現実だけを見れば核をお互いに撃ち合うという事態が発生していない以上、ウォルツに分があるようになってしまう。本書の第5章の事例で出てくるインドとパキスタンでさえ、核を撃ち合わなかったのだ。最悪、世界が滅ぶまではこの議論続けられるんじゃ、とすら思える。しかし、「これまで」は拡散を抑制できていたからそうだったかもしれないが、「これから」もそうであるという保証はない。アメリカはこれまで、北朝鮮のような小国からの核の恐怖を味わったことがないが、自分達が標的になっても同じことを言い続けられるのか、ウォルツに生き返ってもらって話を聞いてみたい。いま、「北朝鮮核兵器保有すること、射程を広げることは、我が国がかの国に核兵器を発射するリスクを減じることに繋がる以上、歓迎すべき事態だ」と胸を張って言えるのだろうか?

(ちなみに同盟理論で著名なウォルトは、これまでもソ連による核の恐怖は味わってきたし、大して憂慮すべきことではない、とtwitterで言っていた。北朝鮮という国が今後も合理的に振る舞えるのであれば、然りだと思う。)

追加で、本書で気になる論点は、では戦略兵器である核兵器と通常戦力の間隙を埋めるような、戦術核についての掘り下げはない(と思う)。相互に全滅しない、通常戦力によりも強力だが局所的な破壊しかもたらさない核兵器、については、第二撃能力を持たない以上、制限すべきなのだろうか? それとも核である以上、抑止の観点から拡散すべきなのだろうか? さておきこの観点から見ると、ウォルツの意見は核兵器が通常戦力と致命的に隔絶されているという視点が非常に肝要なのだ、という事実に気付かされる。

 

うろ覚えのままで上記を書いたので、あとで修正するかも。

 

核兵器の拡散: 終わりなき論争

核兵器の拡散: 終わりなき論争

 

 

ハインライン『夏への扉』

夏が近づいてきたので、夏への扉を開いたが、来年以降は夏こなくてもいいかな、と思った。何せ暑いし。夏を満喫などするはずもないのだから、春でいい。春は良かった。春を満喫することとは花見というわけではなくて、すでに陽気が春だったと思うことで足りる。秋は陽気とか言っている間もなく冬になるので、諦めてすぐに春を待つしかない。春を待つこともまた良い。そのうえ春には夏を待つという醍醐味がある。つまり夏が来ればより嬉しくなる。あれ、何の話してる???

 

言ってることがおかしくなってしまったので、過去に遡って本文を修正しとこう。

夏が近づいてきたので、夏への扉を開いたが、もう読まなくていいかな、と思った。厚くないし。中身も軽いし。満喫などするはずもなかった。

本書を満喫することとは猫見というわけではなくて、発明家が、女に騙され、冷凍睡眠で未来に送られたが、彼はすでに幼い姪に愛されており、タイムマシンで過去へ戻って、色々頑張って、好きだった姪に大きくなったら冷凍睡眠に入ってもらうよう約束して結婚するのだ。ロリコン小説ということで事足りる。猫が活躍したとか行ってる間もなく冬眠に入るので、諦めて幼い姪を待つしかない。大きくなる姪を待つという醍醐味がある。つまり光源氏計画である。

なろう小説におけるざまぁ物でしかないと思うのだが、どうして未だにこれほど名作と名高いのか、不思議でならない。SFマガジンなどで人気投票をするとトップ10くらいに入ってくるけど、海外雑誌であるローカスとかでやると同じハインラインでも『月は無慈悲な女王』などは上位にくる一方で、本書は下の方にポツンとある。日本がズレてるのだろうか?(各国別人気比較とかないかな…)

 

夏への扉 (ハヤカワ文庫SF)

夏への扉 (ハヤカワ文庫SF)

 

 

田渕直也『入門実践金融 証券化のすべて』

特別に語るべくもないというのが正直なところで、それはこういった入門書においては十分な誉め言葉として捉えてもらいたいのだが、それよりも田渕直也というひとは、デリバティブ関連の実務家向け入門書を書いている印象が強かったものだから、証券化についても書くというのは意外だと思う一方、マーケット業務を担当していて証券化商品を運用商品として売るか買うかするというのは当然の選択肢の一つとして上がってこようものと思われるし、その一環でデリバも証券化も両方とも分かるというのは違和感はないのだが、少なくとも領域が違うことは確かであり、両方とも入門書の域を出ないのでまぁ書けると言えば書けるか、と納得はするし、包括的に体系立てて説明してくれるのは新鮮な驚きもあってありがたいのだけれど、もう少し技術的、専門的な話はどこまで書けるのだろうか、などと感じて経歴を見ると長銀三菱UFJ投信でマーケット商品の開発をずっとやってきたとあるので、金融工学的から鑑みたバリューの計算方法とか、より現代的なデリバセールスマンの実態とか、実際の運用サイドの目線の話は苦手そうだなぁと思わなくもないのであるが、とは言え、そういった部分は往々にして文章には出てこないもので、密教的に、そこに属する人間にのみ継承されていくため、仕方ないと言えば仕方ないのだ。

(特に意味もなく一息で書いてみた)

 

入門実践金融 証券化のすべて

入門実践金融 証券化のすべて

 

 

女性声優アーティスト ディスクガイド 、 ドリカンからこむちゃへ アニソン黄金伝説!

声優の歌声にクオリティを問われるようになったのはいつの頃からか。アニソンではない、声優の歌声である。アニソンの長い歴史の中においてどこを境目にするか、は悩ましい問題だが、90年代半ばくらいを一つの時代の変節点とすることは多いのではないか。声優ブームとしては第三次声優ブーム。これは、深夜アニメというものが出てきたタイミング と符合する。あるいは先駆けとしてのOVA文化まで遡っても良い。いずれにせよ、大人向けのアニメが作られ始めたことと関係しそうだ。(とはいえ、スラップスティックスもNG5もあったのだが)

本書は女性声優アーティストディスクガイドとあるが、声優を前面に打ち出すビジネスが始まり、声優にヴィジュアルが問われ始め、アイドルとしての役割が強まった90年代半ば以降が対象である。時代を通底してアーティストとしての第一線を行く坂本真綾の特集(坂本真綾名義で発売した全CDのディスクガイドとなっている)、椎名へきるのインタビューが掲載された後、時代ごとの各CDに対して1頁程度を割いて女性声優ディスクを紹介している。坂本真綾を冒頭に持ってくるあたり、明らかに、良質なポップスを提供するアーティストとして認識する編集方針になっていることが分かる。

世代的な好みは分かれようが、今の時代の一般的な認知度の高い水樹奈々とかを載せておけば安パイ、といった形になっていないことは非常にありがたい。最近のCDまで紹介があるが(+竹達彩奈のインタビュー付。ちなみに彼女のアルバムはあの筒美京平が楽曲提供している)、大量の声優が当然のようにCDを発売する昨今、売上ではなく、クオリティの高いCDを紹介してることも◎。音楽マニアにこそ向けたディスクガイドである。

 

女性声優アーティスト ディスクガイド

女性声優アーティスト ディスクガイド

 

で、なんで↓を急に紹介するかというと、逆にドリカン・こむちゃというのは、その時代のオタクに最も受け入れられた音楽を反映する音楽番組であり、掲載される楽曲の乖離ゆえである。投票を反映するランキング番組というものは、声の大きいオタクを掴まえているかどうか、が順位を上下させるという点で、純粋な人気ランキングとはズレてくる。しかし時代というか、ムーブメントを捉えるという点で言えば、実は向いているのではないか、などと思っていたりもする。たとえばtwo mixとかね。

で、名盤を紹介する↑とは違う、より時代の雰囲気を味わるのならば↓を補完的に読むと、アニソンの歴史の表と裏の両方が見えるという点で、より複層的な捉え方が出来そうに思ってます。

 

ドリカンからこむちゃへ アニソン黄金伝説!

ドリカンからこむちゃへ アニソン黄金伝説!

 

 

太田智之『債券運用と投資戦略』

タイトルの通りで、テーマのひとつは債券運用に際して、そのバリューを、利回りをどう計算しますか、という問題について。価格は市場で売買されている限りは自動で算出されるけど、債券のクーポンと、現在の市場金利を鑑みたとき、その価格は割高なのか、割安なのか、また適正価格はどこにあるのか、はどう考えればいいのか。これは常に問われてくるし、債券の問題はほとんどそれに集約されるとも言える。

もうひとつは、それらをまとめたポートフォリオはどう認識すればいいんだろうか、という問題。

話題を幅広に取り扱って、ひとつひとつの説明が薄い、というタイプの本だが、入門書ではない。金融業界は、怪しげなテクニカル分析本を除くとあまり出版点数が多くないため、5年前以上前に出た本も平気で書店に並んでいるが、一方で毎年のように規制が変わるので、きちんとアップデートされてる本は入手せざるを得ない。

しかしどうしてか、数式の導出方法や、その計算の理屈がきちんと書いてある本は、洋書か翻訳ものしかない。

 

債券運用と投資戦略 【第4版】

債券運用と投資戦略 【第4版】

 

 

ロバート・ジャーヴィス『複雑性と国際政治』

ブクログ救済プロジェクト実施中です。

やや補筆しました。

複雑性と国際政治―相互連関と意図されざる結果

複雑性と国際政治―相互連関と意図されざる結果

 

現代のアメリカにおける国際政治学は、1979年のウォルツの『国際政治の理論』をきっかけに変わったと言われる。それまで還元主義的だった国際政治学が、ミクロ経済的アプローチを導入することによって、国際システムという観点から語ることが出来るようになったからである。言い換えると、個別の国家について言及することだけでは不足で、いかに全体から語るのか、と言う話をしなくてはいけない、という主張である。こちらに書いたとおりである。

ケネス・ウォルツ『国際政治の理論』 - 読んだり聴いたりしたときに更新されるし、読んでも聴いてもないときにでも更新したいブログ

そしてそのアイデアは、その後の学者によって賛否両論、多くの議論が交わされた。(一番の典型が、ロバート・コヘインの『覇権後の国際政治経済学』である。

それに対して本書、『複雑性と国際政治』という名前だと解りづらいかもしれないのだが、原題は、System Effects。つまり、システムアプローチから国際政治理論は考えなおせるよね、という内容になっている。ウォルツも含めて、多くの国際システムの議論をまとめ直したが、ややタイムラグの後、大家・ジャーヴィスから、そうではない、より動態的な国際政治理論が構築できる、と提示しているのである。
システム・アプローチは本来、ウォルツの言うような構造=パワーバランス一点張りの議論ではなかったはずだ。サイバネティクス以来の伝統があるのに、或いは社会学ではルーマンみたいなのもいたはずなのだが、国際関係論ではウォルツのせいで限定した使われ方しかしていない。特にフィードバックをシステムという見地から国際政治学に導入するのとか、実はすごく大事なアイデアのはずなのだけど、なかなかアイデアばかりが持て余し気味になっている感じがすごくするのが勿体無い。90s以降のジャービスの仕事としてはすごく良い。ここからもう一段、踏み込めれば良かったのだが。

最近のジャーヴィスの仕事は流石に年齢も年齢でいまいち…とは思っていたが、しかし↓の古典的名著の再販にあたり、序言でかなり気合の入った現代へのアップデートをしてくれており、この爺さんまだまだ元気だ、なんて思わせてくれました。

Perception and Misperception in International Politics (Center for International Affairs, Harvard University)

Perception and Misperception in International Politics (Center for International Affairs, Harvard University)

 

 
ウォルツ以来の静態的、構造的国際政治理論で思考がストップしている人に特にオススメ。ただウォルツが如何に意義のある議論を展開したのか、その前提にそもそも殆どの人は乗ってないので、万人には薦められないのも事実だが。

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』

ミスター・アントリーニに話したエピソード、主人公があることを話すのに対して、話がわき道に逸れると、「わき道!」と指摘する授業があって、それが厭で落第したが、とは言え、一貫性のない話は厭だ、という主張があって、本書における手法はそれに近い気もする。

何の話と言われてもまとめられないが、ひじょーーーにざっくり言うと、多感な少年が、落第を切っ掛けに放浪して、その度にずるずるとダメな人生を歩んでいくのだけど、さまざまなわき道エピソードが用意されていて、ホールデンという人物が、色んな人と交わっては、その場その場でとてつもない行動力と話術を発揮しながら取り繕っては空振りする、その様子が魅力的に語られる。ひたすら孤独、孤独感と言った方が正しいか、を覚えさせる。だからホールデンが「やれやれ」と呟くたび、「春樹だ!村上春樹のやつだ!」と騒いでも、そのくらいのわき道はOKだろう。サリンジャーの魅力とは関係なくても。

春樹訳として賛否両論なのは、二人称。つまり、誰かに対する告白文として、「君」が出てくる。これを誰か、と捉えていいのか、それともより総体的、一般的な「人」として捉えるべきなのか、という論点がある。あなた、ではないyouがある、という批判な訳だ。柴田元幸は、英語話者はyouに意識していない相手を含ませているはずだ、と村上春樹を擁護したらしい。その適否は私には答えるべくもないが、ネイティブスピーカーに対して、お前ら、自分の喋ってる言葉の意味を分かってないんだよ、と批判するのだとすれば、自分の文化から他所のものを比較文化するという教科書のような好例とも言える。しかし柴田元幸村上春樹の友達だしなぁとも思わなくもない。

 

 

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)