ロバート・コヘイン『覇権後の国際政治経済学』

ブクログ救済プロジェクト中。 

覇権後の国際政治経済学
覇権後の国際政治経済学
 

1980年代アメリカの国際政治学において、本著作は最重要文献の一に入れられるような一冊である。しかしその一方で、日本においての受容がどうであったかと考えると、それは疑わしい。その結果、なのか、それともそもそもとして国際政治学の不人気さ故なのか知らないが、現在では入手が困難な状況にあり、少なくともAmazonでさえカバー画像が出ないということは間違いない。それにはいくつかの要因があると思うのでそれを書く。(と思っていたのだが、先日書店で発見した。再販したのだろう。)

まず、本著は1998年に初めての翻訳をされており、邦題は『覇権後の国際政治経済学』となっている。原題の"After Hegemony"(1984年)よりもタイトルとしてはカッコ悪く、けれども中身に近くてよろしいと思うのだが、それでもやや、著作に関する解釈がタイトルに寄り過ぎている気がする。ちゃんとした学者であればそういうこともないのだろうけど、一般的な認識としては、あまり魅力を覚えないタイトルだ。つまり、アメリカ様の覇権が衰退後とレジーム存続に関する本だと読む人がとても多くなってしまっている。それは一側面として正しいのだが、それではあまりに本書の内容からすれば、偏狭に過ぎる。
しかし、そういう解釈になってしまうのにはこれまた原因があって、そこには日本でケネス・ウォルツが嫌われ、長らく翻訳されてこなかったという事情があると思う。本著は1979年のウォルツ著『国際政治の理論』を踏まえた上で、リベラリストの立場から反論をしたというものになっているのに、そもそもウォルツ自体が殆どまともに受容されなかった。そしてそれより先にコヘインの本著が翻訳されてしまったのだから、本著の解釈において偏りが生じてしまった。
内容としては、ウォルツへの反論としてアナーキーだからうまくいかない、なんてことはない、それでもレジームに基づいて、繰り返しゲームとか、コースの定理とか、限定合理性という観点から、うまくやれるよ、って話だった気がする(うろ覚え)。ウォルツについては、→ ケネス・ウォルツ『国際政治の理論』 - 読んだり聴いたりしたときに更新されるし、読んでも聴いてもないときにでも更新したいブログ



ちなみにこの後、ネオネオ論争という、ネオリアリスト(ウォルツ)とネオリベラリスト(コヘイン)の間の論争があった。(こんなまとめを見つけました。長らくIR業界を支配していたということが分かります。どぞー Neorealism and neoliberal institutionalism: born of the same approach?)勝ち負けはさておき、ウォルツの議論が理解できないと、その後、何を話し合ったのか、も分からない。だからみんな、コヘインを読む前にちゃんとウォルツ読もうぜ。これに尽きる。それかこの議論にいっさい乗っからないか。80年代の日本の学者はそういうスタンスだったし、それはそれでいいと思う。その代わりアメリカ様が認めてくれたぜとばかりにコンストに飛びつくのもダサいから止めよう。あとは、ウェントの翻訳やりたいね。

ケネス・ウォルツ『国際政治の理論』

もー、以下のリンク見てください。としか。

ウォルツ『国際政治の理論』(1) - It’s Not My Blog Title

 

何回かに分けて書いていますので、かなり長いですが。

こっちのブログは最近お休み中です。不思議とアクセス数はたくさんあるようなのですが。何か書きたいなぁ。

 

国際政治の理論 (ポリティカル・サイエンス・クラシックス 3)

国際政治の理論 (ポリティカル・サイエンス・クラシックス 3)

 

 

野口雅弘『官僚制批判の論理と心理 デモクラシーの友と敵』

ブクログから救済。コピペ。

過去、色々なところにレビューを書いてきたので、集約したいなぁと思っています。

 

官僚制批判の論理と心理 - デモクラシーの友と敵 (2011-09-25T00:00:00.000)

官僚制批判の論理と心理 - デモクラシーの友と敵 (2011-09-25T00:00:00.000)

 

 官僚制批判の歴史とは、官僚制の歴史と大きくリンクする。
その意味で本書は、そのタイトルを官僚制批判の論理と心理と置いているが、同時に官僚制自体がどのように捉えられてきたのかという歴史的な言説を追いかけた、思想史的なアプローチで官僚制を分析した一冊とも言える。
著者は官僚制批判の根源を、ロマン主義に求める。画一的な決定を下す官僚機構に対して、多元性を重視するロマン主義が反発するというのがその基本的な構図である。
とは言え、分析の中心は特にウェーバーである。彼は官僚制を「鉄の檻」と捉え、その形式合理性を指摘した。しかしながらテクノクラートによる支配は、ハーバーマス的な後期資本主義の中では政治化してしまう。著者はこうした事態に対して、これまでの日本はそれが上手くいっていたから問題とはなりにくかったが、それが不調に終わっているいま、リキッド・モダニティと呼ばれるかつてのような時代における、境界のはっきりとした硬直的な官僚制のあり方は転換期を迎えていると述べ、新たな官僚制の捉え方、そして新たなウェーバーの読み方の必要性について示唆を加える。とにかく、カリスマv.s.官僚制という二項対立を止めて、デモクラシーの実現の必要条件としての官僚制を前提にしながら考えるべきだということを、ウェーバーを基礎にして主張するのである。

とにかく読後感としては、面白いが、現実の官僚制に関して、思想史的アプローチで言えることはとても小さい、という感覚であった。我々のほとんどが、官僚制批判をしているかいないかに関わらず、官僚制をこの世から無くせなどとは考えていないわけで、必要だけどどう対処しましょうという話なのであって、そんなことは言われなくても解っているという感じではある。面白いけどね。

くまなの『くま クマ 熊 ベアー』

「なろう小説」というジャンルがある。「小説家になろう」というサイトで掲載されるアマチュアの小説だ。人気作は多少の手直しの上で書籍化されるのだが、最近では完全になろうバブルが来ていて、ちょっとでも人気を博すとすぐに書籍化する。

ちなみに書籍化の際には、

1.連載をストップ&閲覧不可にする

2.ダイジェスト化する

3.そのまま連載続行

というパターンがあり、最近では3のパターンで固まってきた感じがする。宣伝を考えると、連載中止にしてしまったらそれ以上の読者獲得ができなくなるのだから、まぁそうなるよな、とは思う。しかし、連載そのままの書籍化というのではそれも購入の意欲が削がれるから、プロ編集の手で手直ししながら連載継続、という形に落ち着いたのだろう。

「なろう小説」には傾向がある。勝手に いくつか挙げつらうと、1.現世で死んで、異世界に転生  2.転生先では現世とは違い、特殊スキルか現代日本の知識を活かして活躍。ハーレム構築 3.神が出てくるが、キャラ崩壊  4.文章はやや稚拙な一人称etc,etc...。勝手なことを言っているが、全部がそうじゃないし、もっといろいろあるのだが、そこはあくまで傾向ということで。

私は正直なところ、「なろう」はハードカバーのちゃんとしたやつを読みたくない、普通の小説にしても重たいと感じる気分のときに読んでいる。何というか、メンタルの疲れに対して、最も"ちょうどいい"のだ。漫画でもいいのだが、漫画よりも軽い。きらら系四コマ漫画という、日常の軽さを武器にした漫画群でさえも、プロの仕事だからか、ちゃんとしていて重たいのだ。

その点、『くま クマ 熊 ベアー』は軽い。すごく軽い。何せページの下半分は真っ白だ(言い過ぎ)。モノローグ形式で、表現に凝ったりしない分、一文は短い。説明は最低限の伝わる程度しかしないのだ。下手したら伝わらない。昔、あかほりさとるが表現の軽い小説を意図的に濫造していたが、この軽さはそれ以上ではないか。心の機微も少ないので、もっと淡々としていて、あかほり作品ほどのドタバタ感はない。少女版ハードボイルドだ。

転生の瞬間はこうだ。

「目を開けてみた。 マイホームじゃなかった(ゲームにログインするといつもはマイホームに転送される)。 知らない森の中だった。 装備がクマだった。 両手、両足、着ている服。 先ほどのキャンペーンでもらったクマの装備一式だ。 いきなり装備されているとか。 着てみると意外と肌触りがいい。 手を見ると、クマの手袋はパペットのようだ。 口をパクパクしてみる。 意外と可愛い。」

この軽さが良い。「なんじゃこりゃ~」みたいなの、暑苦しいから要らない。

話は引きこもり少女が転生したが、神から与えられたクマ装備(&現代日本知識)で活躍するというもの。典型である。人気作だったような、、、と思って調べてみたら、累計ランキング73位なので、そこそこ売れているが、やや埋もれている。漫画化、アニメ化には届かない。 「なろう小説」のランキング上位は、異世界転生のお決まりを守りつつ、意外と文章がちゃんとしている、みたいなのが多いけど、違うんです、「なろう」っぽいものが読みたいんです、というときにオススメ。

 

くま クマ 熊 ベアー (PASH!ブックス)

くま クマ 熊 ベアー (PASH!ブックス)

 

 

堤林剣『政治思想史入門』

堤林先生はコンスタンの専門家だが、コンスタンと聞いてピンと来るひとはほぼいないだろう。ルソーを批判したフランスの思想家で、日本語だと岩波文庫で『アドルフ』が唯一手に入れやすいものの、殆どの場合、手に触れる機会もない。アドルフ自体も文学なので、所謂思想についての著作ではない。そして本書では基本的にコンスタンには触れられない(一語だけ出てきた)。

『政治思想史入門』と題されているものの、かなり癖が強い。自分の独自色を打ち出した教科書ともなれば、専門領域を大いにまぶしながら、とも普通は考えるが、そんなことはなく、まず時代設定はむしろルソーまで、である。確かにその後の時代で誰を語るべきか、とは悩ましい問題だが、とは言え、もう少し書けるだろう。でも、しない。では代わりに何を書くかというと、古代ギリシャ古代ローマに割くスペースの大きさと言ったら無い。じゃあソクラテスとかプラトンとか言う有名人とも思いきや、プラトンに辿り着くのですら道が長い。アイキュロスやソフォクレス、トゥキュディデス、ストア派などがこんなに語られるのは珍しいのではないか。延々と馴染みのない時代の思想家出てくるこの感じは、熊野先生の西洋哲学史を彷彿とさせるが、政治思想史だとかなり異様な印象である。

頭の良い学者先生は、たまに入門書を勘違いする。本書を読んで近い印象を抱いたのは、齋藤誠先生の『父が息子に語るマクロ経済学』だった。既存の学問を、ありがちな既存の教科書の作りに流されることなく、強い問題意識を以て、前提から一つ一つ論を組み立てる。それだけの力量があるからこそ出来る所業なのだが、ド素人は「分かる」話がないと知的体力が途中で切れるのだ。読み手の怠慢であることは百も承知なのだが。だから我々ド素人には、かなり本書がしんどいのもまた事実なのだ。非常に知的に誠実(いわゆる教科書的な文体ではなく、たまに話し言葉に近い感じで、本書の著者の実感も、弁明も混じってくる)なのだが、そこが疲れると言えば疲れる。

本書の重要な視角に、what is、what seems 、what mattersの三つがある。分かりやすいのはプラトンで、それが何であるのか、ということと、どのように見えるのか、何が大切に思われるのか、が峻別されるというのは、教科書的な哲学史・思想史でも出てくる話だが、その視角は長ーく援用される。例えばホッブズはwhat isをwhat seemsに取り込んだと捉えられるし(ただ目に見える物理的な現象のみを分析するスタイル)、ロックは彼の神学的パラダイムに基づき、すべてをwhat isに取り込むのである。といった具合に。

入門書ではなく、中級テキストと捉えれば、潤沢な注釈があるので、その次のステップにも進む…には英語・仏語を参照してることも多く、難易度がまだ高いかもしれない。

何にせよ、今後も繰り返し読んでいきたい一冊だし、是非、この先も出れば読みたい。

 

 

政治思想史入門

政治思想史入門

 

 

キャロル・モンパーカー『作曲家たちの風景 楽譜と演奏技法を紐解く』

クラシック音楽をめぐる書籍は決して少なくない。大型書店に行けば楽譜コーナーも含めると広いエリアを占めていることが見て取れる。手に取ってみると、評論本も多く並んでいることが分かり、そのいずれもが、著者による己の独自の感性を活かした雑筆となっているため、さながら読書感想文のようである。全く優秀な小学校時代を過ごしたことだろう。

世の優秀なクラシックリスナーは、残念ながら楽譜が読めないことが多い。もしくは育ちが良いので少しは弾いた経験もあろうが、外国語も達者ながらに楽譜に書いてある文字に目を通したことは無さそうだ。ミケランジェリが何年にどういった演奏をしたといった、演奏家についてのトリヴィアルな知識はあっても、ミケランジェリがどうしてそういう演奏になったのか、というのは楽譜を見ないため分からない(といってもミケランジェリが何を弾いたか、なんてのは弾いた曲の選択肢の少ない人なので、当てずっぽうでも案外正答率は高そう…)。 そもそも「完成度の高い演奏」(同じくミケランジェリに対する形容)とは、いったい何のことを指すのか、未だに不明瞭である(ミスタッチの数のことではなさそうだ)。

別に皆が皆に対して不満という訳ではない。演奏家兼評論家をやっている人もいるし(青柳いづみこが代表格だろうか)、演奏とは別次元の圧倒的独自路線で、目から存在しない鱗までボロボロ剥がしてくれるような人もいる(片山杜秀は途轍もないと思う。一応バイオリンを幼少期にやっていたらしいが…)。ただ、「許」しがたい人もいる、というだけの話だ。(さて、誰のことだろう?)

それと比べて海外の翻訳ものは全般的にクオリティが高いなぁと思う。単純なセレクションバイアスかもしれないが、それだけじゃなく、これも含めて、評論家が実際に演奏をしているという例も多く見られるのが有難い。大部のバッハのフーガの演奏法本はスコダが著作だったりして、演奏家の執筆レベルもまた高い。書き手と弾き手がきちんと相乗効果をもたらしあっている良い環境を感じられる。本書の著者キャロル・モンパーカーは、評論家兼演奏家らしく、実際に演奏したときに、様々な著名ピアニストと相談をしながら考えを固めてきたといった記述も随所に見られる(Youtubeで見た限り、技術自体はそこまで…だが)。またベートーヴェンの生原稿も見ているということで、楽譜を読める強みも持ち合わせる。そうすることで、楽曲の内面に踏み込んだ記述をすることができるのだろう。然して本書では一章ずつ、時代ごとの代表的な作曲家について、楽譜と演奏技法の観点からどう演奏すべきか、という問題が語られる。

個人的に助かるのは、補録としてショパン舟歌」について、7人のピアニストからインタビューをとり、楽譜を用いて特に丁寧に分析されている点。単に自分が弾く際の一助になるというだけで殆どの人には無用だろうが、ピアニストがどう考えてこの一音を解釈しているのか、というのはあまり聞く機会がなく、当たり前だが、人によって認識の多様性があることに気付かされる。自分の演奏を見直せる数少ないチャンスでもある。

 

作曲家たちの風景 ――楽譜と演奏技法を紐解く―― 【CD付】

作曲家たちの風景 ――楽譜と演奏技法を紐解く―― 【CD付】

 

 

オノ・ナツメ『ACCA』

 ついにACCAが終わってしまった。オノ・ナツメ作品に通底する、男キャラのエロス。よく出ていたと思う。あまり武士のほうはその価値を分かってあげられないが(さらい屋とか、、、)、西洋の、鼻の高い男性キャラは何とも言えないのじゃーと涎を垂らしていた。またロッタも可愛い。で、これがマッドハウスで、夏目真悟監督でアニメ化されるということで、随分と期待させられたのだけど、感想としてはアニメについては正直エロスが足りなかった…。顔についている、極端に大きくて横に広がった目が、人間の目になってしまっていたのだ。その意味でアニメで描かれていたのは、人間ジーン・オータスだった。リストランテ・パラディーゾとかもそうなんだけど、生活が描かれていてなお、生活感を微塵も感じさせない非人間的な振る舞いこそが魅力だったんだなーと思わせてくれる。我らの愛するガイジンは、あるいは武士は、人間であってはいけなかったのだ。顔つきも見ると爬虫類に思えてくる。

治安維持を司るACCA局員、ジーン・オータスは、知らぬ間にクーデター計画に巻き込まれていき、どんどん中心に据えられていくのだが、本人は至って無関心で受動的。だから彼が何を考えているか分からないし、そういう点が人間的ではない。タバコを屋上や広場で喫むジーンは、遠くをぼんやりと見ており、目の焦点が合っていない。一方で彼はよくタバコを喫む場面をよく目撃されており、彼は常に「見られる」対象である。彼を中心にシステムが作動しており、そのなかでブラックボックスのジーンは、様々な刺激を受け流す。ロボットだろうか。

タバコはライトモティーフのように象徴的に描かれるが、何かの記号か、と言われると、やや悩ましい。「もらいタバコのジーン」だけあって贈与(マルセル・モース)と返礼のシステムが存在していて、そこに社会が成立する。一方で、視察した先で受け取ったタバコを吸っておらず、贈与のシステムから考えて、ラストのクーデターへの対処が既に予感させられる。即ち、ラストのジーンを見ると、非人間的なジーンというのは、いやいや能動的ではないか、と思えるかもしれない。が、ネタバレにもなるから踏み込まないが、もっと現状打破的な着地点もあったはずで、やっぱりまだ受動的だと思うのだ。トップが阿呆なことに変わりはないではないか。とは言え、多くの漫画で秩序を変革するシーンは少ないので、時代か、メディアの要請なのかもしれない。しかし、タバコを「吸う」という行為に何の意味があるのか、は、、、何だろうね?