現代小説クロニクル 2000~2004

良いシリーズだと思う。講談社文芸文庫は短篇のアンソロジーを定期的に出していて、この現代小説クロニクルは、そのなかの一環として5年区切りで名作短篇が集められている。

5年というスパンはかなり短い。純文学は時代を映し出すことも多いが、5年では時代の区切りとしては短い。とは言え、時代の最先端だったであろう綿矢りさ「インストール」は今の感覚からすればかなり古い。とは言え、5年もいくつか積み重ねれば大きくなる。当たり前だバカ。今だったらこういうのはツイッターかLINEかでやるんだろうけど、若さに価値があるのに、女子高生が大人のフリをしてしまうというのは当時の人間は理解できたのだろうか? 同級生を斜に構えて見て分析してる気分になって、あれとは違うと何かになりたがる高校生、という人物像は、もはや、ありがちすぎて、フィクション性が極まっている。ただし、フィクション的な人間になりたがる若者、というのは、まぁいるか。彼らは○○"ぶる"のだ。しかしチャHと呼べばいいのか、こういうサイバーセックスをするのに対して、随分と物語構造上の理由をつけている。必要だろうか? その意味では金原ひとみ蛇にピアス」の方が、セックスに対するフラットな感覚・描写が現実的(なのに、山田詠美の言う通り「ラストが甘い」。ドラマチックで通俗的なのだ)にも思うが、一方で優等生が援交をするのには理由が必要なのかもしれない。仕方ないのかもしれない。ところでこの二作の、身体性と、サイバーという非対称さは、既に語られていることだろうか?それともこれは非現実的という意味での類似点なのだろうか?

完璧なフィクションにしてしまうなら、堀江敏幸「砂売りが通る」が白眉だ。たったワンシーンを切り出すだけで圧倒的な背景を構築する。「それは、小説のつもりで書いたものではありません。文芸誌「新潮」(新潮社)で三島賞受賞作家特集があったとき、何でもいいですと依頼されて書いた原稿が、編集部の判断で創作欄に載せられた。「エッセイ」の枠でも全く問題無かったんです。文字にしたものには、すべて創作だと考えていますから。ともあれ、それで、僕は「散文」の書き手から「小説的な散文の書き手」として、やや小説寄りに分類された」ものらしい。ここにあるのは物語構造ではない。場面を、主人公が昔と記憶の中で照らし合わせる。が、「時間が、そこでいきなりよじれた」。短篇ならではの凄さだった。

感想はそのくらいです。

 

 

小沢健二『Life』

小沢健二が復活したとのこと。印象として、あの時代に青春を迎えていたひとの象徴の一つであり、時代の寵児であり、逆を返せば、それ以外にとっては無関係なひと。私にとっては無関係のひとだった。でも、鷲崎健のヨルナイト×ヨルナイトで、オザケンという名前がよく話題に上ってきていて、ある回で岡村靖幸の『家庭教師』と比べてどっちが名盤かというボクシング対決(意味が分からない。私も意味が分からない)を組んでいて、邦楽にとってよっぽどの名盤という扱いになっていることを知り、手に取ることとした。  素晴らしかった。

「多幸感」。この詞がこの名盤を評するときのお題目である。では、念仏のように唱えるのだ。タコウカン、タコウカン、タコウカン…。ああ、幸せな気分になってきた。目の前に小沢健二があっぱいに広がる。が、顔が良くないので掻き消そう。立川談志が言っていた。金払いがいいと言ってるやつがケチな場面を見せると悪口を言われるが、はなっからケチですと言っておけばケチなことをしても、あの人はケチだから、で許される。フリッパーズギターが音楽をパクっていようとも、堂々と居直っている分には誰も責めない。パクり?違う、ハッピーなんだ。歌が下手?違う、ハッピーなんだよ。ハッピーだ。

渋谷系という言葉が、あまり今の渋谷を見てもイメージがつかない。ゴミゴミしすぎている。かつては違ったのだろうか。今の感覚的には表参道とかそういう感じがする(近いけど)。まぁ、単に渋谷に海外CDショップがあって、音楽の発信源だったから、渋谷系。ということで、やっぱり街はずっとゴミゴミし続けている。音は無駄がなく、クリーンだ。音幅が狭いからこそ、声質に熱量がなく、音域は不安定。だからこそ、王子。京浜東北線だ。

ピエール瀧が、倖田來未がしていたラブリーのカバーを、渋谷系でなく新宿系だ、と言っていた。どちらも同じだろう。ただ聞いてみると、違いがよく分かる。倖田來未のは、アレンジが現代的な感覚で正解だ。R&Bやらソウルやらをポップにするならこれでいい。小沢健二は音のバランスがおかしい。前に出過ぎだ、ベースもうるさい。よくよく聞くと、いろんな音数が鳴っているのに、演奏がシンプルに聞こえるのはこのせいだ。いいか、これは褒めてるんだ。正解なんてどうだっていいんだ。シンプルに、クリーンに、小沢健二のハッピーに乗っかるのだ。ついに世の中はAメジャーとEメジャーに支配されたのだ。

 

LIFE

LIFE

 

 

遠藤周作『沈黙』

遠藤周作という作家は、文章の巧みな人だなぁというのが第一の感想だった。皆さんご存知の通り、江戸時代に入り、キリスト教は迫害された。宣教師ロドリゴ一行は、信仰に篤い宣教師フェレイラが日本で棄教したと聞き、その真偽を求めて日本は長崎に向かう。

そして宣教師達が苦しむたび、水が付きまとう。日本に辿り着くまでの船旅との苦闘に始まり、梅雨のなかで繰り広げられる日本人による陰湿なまでの棄教の強制、水磔のみならず、簀で巻かれて海に沈められる日本人のキリシタンと、自分から海に沈んでいく宣教師。そしてまるで沼のようだと喩えられる日本のキリスト教における土壌。こうした日本に対する逃れられぬ水のイメージとともに、ロドリゴは結局、日本に引き込まれ、棄教している。こうした一貫したイメージは、作品全体の鬱蒼とした雰囲気をうまく醸成するのに役立っている。そして沈黙する神は、日本に来たのちには、顔の表情すら変わってしまうのである。フェレイラいわく、日本でキリスト教を30年布教して、広まったものはキリスト教的な何かでしかなかった。

そうした西洋と日本のキリスト教観の不整合は、遠藤周作にとっても強い問題意識としてあったようだ。これを逆転させて考えると、どころか、多くの西洋文学においてキリスト教に基づくコスモロジーはあるはずだが、日本人は読み取れていないとも言える。とにかく日本人には難しい概念が多く、例えば愛、というのは我々のイメージとは合致していないだろう。本作でも愛が中心的に語られていたように思う。イエスとユダの置き換えである、ロドリゴとキチジローの関係性では、ずっとロドリゴは裏切り者のキチジローを愛せるか、が主題と言えた。最後の最後で、ロドリゴが表面的に棄教するに至った踏絵でも、ポイントは信徒に対する愛だった。

常に西洋において愛は問題になる。話は逸れるが、ハンナ・アレント学位論文は『アウグスティヌスにおける愛の概念』だった。愛と言えば普通は、隣人愛というキリスト教的な教義が挙げられる(caritas)が、ギリシャ的な愛(eros)というものもあり、その間で揺れ動く愛がアウグスティヌスにはあった。では、本作の踏絵における愛とは、単なる隣人愛だったのだろうか。隣人愛は神への愛による一体化から繋がる発想だろう。しかし、踏絵のシーンにおける信徒は、キリスト教的な何かを信仰する誰かだった。日本の信徒が苦しめられるからロドリゴが棄教する(=「転ぶ」)とは、パウロ的な愛に基づく行為と言えるのだろうか。信仰を持たない私が深く踏み込める領域ではないので、キリスト教解釈論議をするつもりはないが、少なくとも遠藤周作にとっては、日本のキリスト教を「母なるもの」として捉えていたらしい。踏絵をするとき、神が沈黙を破ってロドリゴに、踏むことに対する赦しを与えるわけだが、ここはとにかく物議を醸したらしい。遠藤周作自身も布教意識をもって執筆したからそれもやむを得ないが、しかし、ここにおけるやや歪んだキリスト教像はそうした意識に基づくようだ。池田静香氏は、吉本隆明がこれはキリスト教でなくても<信>のパターンであれば仏教なんでもよい、通俗的な作品だと喝破したとするが、まさしく。しかし、布教パンフレットと読まず、キリスト教特有の作品とも読まず、近代文学として読む分には全く問題はない。全体としてジメジメとした文章が、<信>によるジレンマを沸き立たせ、そして最後の赦しまで至るという流れは、非常に完成度が高いものであり、キリスト教解釈の適否は問題にならないだろう。

 

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

 

 

小森晶『トレーダーは知っている』

タイトルが胡散臭くて、副題が「オプション取引で損をしない「法則」」となっている。きんざいのテキストなんだから当然なのだが、残念ながら本書を読んだところでそんな法則は載っていない。相場の見方とか、分析方法とかそんなものには触れるつもりも毛頭なく、オプション取引の入門について説明した後、本書を買った人間だけが見れるエクセルファイルを使ってオプショントレーディングのシミュレーションをしたり、ブラックショールズのモデルに基づいてボラティリティ金利を弄ってみたりする。

一方で、モデルの作り自体にはほとんど踏み込まない。変数が示されるだけであるので、その意味で本書は入門向けな気がしないでもない。しかしながら、金利オプションはレートが低いのでログノーマルではない、フォワードレートを掛けたノーマルボラティリティを使うという説明から、ぬるっと本書はSabrモデルについて述べるのだ。ここまでの説明のうちに、正規分布という言葉はどこにも出てこない。理論的な話には踏み込まずに、アップトゥデイトな議論をする、というある種無謀とも思えるアプローチをしており、大胆だなぁという感想を抱く。とは言え、細かな説明を諸々すっ飛ばしながら、最終型は、

(G-F)=α×E1×√D×F^β

η=ν×α×E2×√D

で、E1とE2の相関はρね、と言うのであるので、すごーく簡単というわけではない。ただそれぞれの変数を導くための数式は省かれている。そうしてボラティリティがストライクごとに異なるときの価格変化のイメージをつけやすくするのだ。

本当に入門的な部分のみ触れたい場合は、オプション取引の入門の部分だけでもタメにはなる。つまり、プット、コールから始まり、ブラックショールズの変数やグリークス、デルタニュートラル、スマイル等についての標準的な教科書的説明がなされている。調べてみると、案外オプションについての簡単な概要本は、何一つ数式の出てこないド初心者向けしかないので、このくらいでも有り難い。但し「はじめに」にて、オプションマーケットの暗中模索状態から色々シミュレートして全体像が見えてきたとある通り、実際に手を動かして見える箇所もあるだろうし、そこだけに留まるのも勿体無い気もする。

一つ、あえて言うなら、本書のターゲットはいったいどの層なのだろうか?(さすがに個人投資家ではないだろうし、大多数な銀行員でも無さそうだ)

 

トレーダーは知っている-オプション取引で損をしない「法則」-

トレーダーは知っている-オプション取引で損をしない「法則」-

 

 

松本佐保『熱狂する「神の国」アメリカ 大統領とキリスト教』

 アメリカ政治を理解するのに常に付きまとってくるのが宗教問題である。日本ではまだ馴染みの薄いロビー活動(当然日本にも利益集団はいるが…)において大きな役割を果たすキリスト教という姿を見ると、アメリカが先進国の中でも最も先進国的ではない国家だと感じさせる。これまで欧州も、日本も、政治は世俗化を図っていってきていたなかで、キリスト教がどんどん政治に参画するアメリカはやはり異常である。あるいは今の世界の風潮を鑑みると、ややもするとこれが最も先進国的になっていくのかもしれない。ポピュリズムが蔓延する中で(ポピュリズムの定義はさておき)、停滞する経済により利便を享受できなくなった市民は、"アンチ"として何かを攻撃するようになったわけで、欧州で見られる移民排斥はアンチイスラム的な動きとしては宗教的と言えなくもない。しかし例えば国民戦線の背後にカトリックがいようが、政教分離原則は維持されており、宗教を政治に活用するような動きはまだまだ出てきそうもない。

ところで本書は松本佐保先生による、アメリカの政治と宗教の関わりについてまとめられた新書である。先進国に稀な宗教的国家であるアメリカについて、幅広にまとめあげられた著作となっており、あまり手軽に手に入れられない分野ということもあり非常に参考になった。松本先生は、イギリスにおける対バチカン政治の研究者であるらしい。これまでの研究成果を見るに、どちらかと言えばイギリス外交の専門家であり、バチカンに研究の土地勘があるようだが、これは、やや専門から外れていても書かせる人がいないこの領域の手薄さなのか、あるいはそれでも書かせたいという魅力によるものなのか。(あまりこの領域は詳しくないので、判別つかない)

章立ては以下。

1 アメリカの宗教地図

2 カトリックの苦悩

3 米国カトリックの分裂

4 ピューリタンから福音派

5 1980年、レーガン選挙委員会

6 キリスト教シオニスト

7 ブッシュ大統領キリスト教右派、その後

8 福音派メガチャーチ体験

 

1章でアメリカのキリスト教の系図や地域性を説明した後、英国から米国へ流れてきたカトリックおよびプロテスタントがどのように政治へと関与していくようになるかをざっくりまとめる。なかでも重視するのがレーガンを選出した1980年の大統領選で、それまで下地を作ってきたキリスト教票がついに、テレビ伝道師達とともに花開いた様子が様々なエピソードを含めて説明される。ゴールドウォーター敗北後の支持者達が、カーター政権に幻滅した層をいかに取り込みレーガン当選へと結託したのか、について一次史料からの説明もあるのが良い。そしてその後、キリスト教シオニストと呼ばれる親ユダヤ層がイギリスからアメリカに流れて影響を及ぼしていること(ここが著者の専門のようだ)、ブッシュ政権で栄華を誇ったキリスト教右派とその減退、最後に福音派メガチャーチへの往訪体験が描かれる。ややテーマ性が見えづらく散漫ではあるが、出来るだけ多くの要素が拾われており、入門には良いと思う。

一方で気になった点は、新書なので諦めなければならないところかもしれないが、言葉の定義が明確ではない。例えばアムスタッツ(『エヴァンジェリカルズ』)にもある通り、そもそも福音派はある一体となった活動ではないことから包摂する意味が広く、仕方ない部分ではあるものの、本書はGood newsです、でざっくりまとめてしまっていて、で結局なんだっけ、と言うと曖昧に過ぎた。

またキリスト教右派・左派、様々いるなかで政治へ関与した過程は分かったが、ではどうしてアメリカが特殊な有り様になったのか、どうしてそれぞれの宗派が強力な右派の機能するような考え方に至ったのかといった説明は限られる。他国とアメリカの在り方がある程度は比較されないと、アメリカの宗教と政治についての説明としては物足りない。それから各大統領の信仰と政策の関連が述べられるが、実際どこまでが信仰に基づく政策で、どこまでがロビイストであるキリスト教徒に迎合した政策だったのか、あるいは無関係だったのかというのはまだ検討の余地があろう。

以上、気になった点を一言でまとめると、神学的なアプローチが少なく、信仰そのものがアメリカ政治にどう影響したのか、が見えづらかった。テーマ的にも紙幅的にも仕方ないが、こうしたテーマを政治史的にまとめるだけだと、多くの人々を魅了し、作用させた宗教は理解しきれない。単なる一つの利益集団の影響による歴史と、人々に倫理や価値観を提供する神学を同一視してしまうと、そこに生きていた人間を理解するには片手落ちになってしまう。その意味ではメガチャーチというエンターテイメントについて紹介されていたのはサポートになったと思う。

ところで帯にある、「ローマ教皇はトランプを止められる」んでしょうか?解答が載ってないことを考えると、煽りすぎでは。

 

熱狂する「神の国」アメリカ 大統領とキリスト教 (文春新書)
 

 

フォーリン・アフェアーズ 1月号

アメリカでトランプ大統領が就任してから一週間近く立つが、まだその全貌・思想は見えてこない。部分的には選挙戦通りに動き始めたのが分かるものの、では選挙戦の主張のうち、どこまでを実際に履行するのか、まだ知る由もない。いったいメキシコとの壁の費用の払い手はいるのだろうか??

その中僅かに見えてきているものとして、国際秩序に対する嫌悪が挙げられる。TPPNAFTAという経済的な多国間協調体制のみならず、EUやNATOのような、より政治的な体制にも舌鋒を繰り広げている。そして、一足先に体制からの"足抜け"を表明した英国のメイ首相とは、早々に会談を設定するという徹底ぶりである。

ヨーロッパでも体制を忌避する流れが起こりつつあるなか、秩序の担い手であったアメリカが拒否するとなると、第二次大戦以降から続いてきた国際協調の動きは途絶えてしまうのだろうか?『フォーリン・アフェアーズ 1月号』はまさしく、その点に大きくフォーカスを当てている。

ところで先日のエントリーで、雑誌『アステイオン』の良さについて語った。しかし、国際関係について日本語で読める、最も優れた雑誌は本誌『フォーリン・アフェアーズ』をおいて他にないだろう。英語版とは載っている記事がやや異なり、翻訳サイドの思惑が編纂に入ってきているのが余計だが、概ね優秀である。主に英米の研究者およびテーマによっては全世界の実務家が筆を執る本書は、アメリカという国がグローバルにコミットしていくその姿勢をも窺わせてくれよう。

さて話を戻して、アメリカの担うリベラルな国際秩序について。本誌の論者の殆どは、残念ながらリベラルな国際秩序が衰退していることを認める。但しスタンスは微妙に異なり、ロビン・ニブレットは世界大で「リベラル国家」対「反自由主義国家」(あるいはポピュリスト)の対立が起こっていることを訴える。一方でジョセフ・ナイは、さすがソフトパワー論者であり、あくまでアメリカ国内の問題とする。彼のソフトパワー論は、衰退するアメリカ(と言っても圧倒的優位にあったのだが)に対して、いやいやアメリカにはソフトパワーがあるから引き続き偉大なのだ、とアメリカへの誇りを感じさせるものだったが、本論では中国やロシアは(内心はさておき)秩序に真っ向から戦う存在ではないとして、ワシントンのポピュリスト政治こそ国際公共財を毀損し、結果としてアメリカも利益を損なわせるものだと主張する。引き続きハードパワーではない、国際秩序やネットワークを重視する。

面白かったのは、ナイと近しい意見を持ちながら、対立するようにも見えるコリ・シェイク(Kori Schake)の"Will Washington abandon the other? The false logic of retreat"。オバマ政権は対外関与を減らし、burden shiftingを進めていた。トランプ政権はこれを強化し、offshore balancing(ここでは、ミアシャイマーとウォルトの論考から「台頭する国家を牽制する役目を他の諸国が主導するように促す」ことだとする)まで進めるだろうと予想する。これに対し、Robert J. Lieber "Retreat and its consequence"からオバマ政権の撤退がアメリカのコストを増大させたと説いているとともに、Eliot A. Cohen "The Big Shock. The limit of soft power & the necessity of militaly force."から、軍事介入の有用性に言及する(副題のソフトパワーの限界、とはナイに対する何とも皮肉である)。ただオフショアバランシングを押していくことは、アメリカの同盟国が侵略国に宥和的になってしまうリスクもあるのだ。トランプ大統領は、オバマ政権のシリアに対する空爆を「ピンで刺す攻撃」だと揶揄して政治的な訴求を得たが、今や彼は、もっと柔軟な政治的アプローチを有していることを知っているはずだと締める。 

全く然りで、極論を言えばアメリカが守ってくれないなら対立する中国側につけばいいのだ。彼らも別の国際秩序を作るべく奔走しており、その流れに乗っかるだけでよい。それが不満なら必要に応じて同盟国を見捨てない努力をしなければならない。リベラルな秩序はゼロサムゲームではないので、別のアプローチが必要そうだが。。。

今のところ、トランプ外交はよく言われるレーガン外交よりも、ニクソンを思わせる部分もある。彼自身がMad man(ニクソンはMad man theory(狂人理論?)を核抑止の論理に適用した) であることもあるが、70年代の三角外交にも見えてきそうだからだ。ロシアと近づき、中国と対立するので、当時とは逆であるが。その場合、当時は中ソの対立があったことから米中vsソ連の構図を作り出せたが、今は中露関係に問題は感じさせないので、それだけでは中国との宥和はまだ難しそうだ。むしろティラーソン国務長官マティス国防長官はどんどん中国を煽りそうにも思える。となると、中国に対立できる同盟国のプレゼンスは上がるだろう。同盟国は裏切る覚悟を見せることで得られるメリットはあるかもしれない。その際に最後に米国と上手くやれた場合の日本は、案外非国際秩序サイドなのかもしれない。

 

フォーリン・アフェアーズ・リポート2017年1月号 (フォーリン・アフェアーズ・レポート)

フォーリン・アフェアーズ・リポート2017年1月号 (フォーリン・アフェアーズ・レポート)

 

 

西田谷洋『ファンタジーのイデオロギー 現代日本アニメ研究』

新海誠が流行っている内に本書は紹介しておきたい。正確には、新海誠がというよりも、「君の名は」が流行っているというのが適切だろうが、それでも新海誠作品が社会現象にまでなるというのは驚きだった。秒速5センチメートルは、明らかに普段アニメを見ない人も見ていて、一般層には一番ヒットしやすいのでは、とは思ってはいたが、まさかここまでとは。ここ数年、ポスト宮崎駿論争起こっていたが、細田守は先細り、庵野はオタクビジネスの呪縛から逃れられず、というなかで、新海誠しか押し出せる人はいないので、格好の材料になっている気がしないでもない(なお、同じ年に片渕須直の『この世界の片隅に』がヒットしているが、こちらは同じくジブリ高畑勲に重ねる向きが多いが、面白い偶然だ)。

本書は、近代日本文学を研究領域とする著者により、全10章で構成されたアニメ分析である。様々な作品が分析対象となるが、その際の分析枠組となるのはポストモダンの哲学書であったりする。例えばテロリズムを描いたCANAAN閃光のハサウェイを通じて、グローバリズムに基づく大きな物語に対比された、異質性が表象されているとし、自発的に主体化されない女性が示されているとする。またBLACK LAGOONを通じて、テロの連鎖を忘却せずに記憶することが肝要だと主張する。このあたりは、作品のテクストへの寄り添いが不足して、単なるポモをなぞっただけにも見える。

一方で、多様な読みを明らかに促す「輪るピングドラム」の分析は、作品自体が作中に分かりやすい「読み」を配置してくれてるだけあって、うまく解きほぐしてくれる。いかなるストーリー展開が、最終的に救済へと繋がっていくのか。その過程の描写は、何のメタファーになっているのか、が示される。ここで対置される作品は、「銀河鉄道の夜」や、村上春樹「かえるくん、東京を救う」である。ただし、作中で出てくるあからさまな「ヒント」を使ってそのまま説明するので、鬼才・幾原邦彦の掌の上で踊ってるだけにも見える。ピンドラ論の締めは以下である。

新自由主義体制下の主体は、根源的な体制変換へと向かう創造力を奪われ、排他的な共同体を維持する消費に隷属しているのである。こうして『輪るピングドラム』は家族愛とテロリズムを消費するテクストとして現動化する」。凡庸と言えば凡庸ではないか。

 

さて新海誠論は、「雲の向こう、約束の場所」がテーマである。まずは議論をまとめて見よう。著者は、本作品がドゥルーズ的な装置で読みうるテクストであると主張する。

1.同一性と差異

 浩紀が「告白をしないしされてもいない」ことから、「自らの思いと対象が存在するだけで充足している」人物であり、自己内部で世界が反復しているのだ、と言う。また約束の場所について、コードの入力として、約束を守る/守らないという条件選択の反復に過ぎないことから、恒常的に反復される世界であるとする一方、時間が流れることで差異が存在する。浩紀のモノローグ時点では、約束の場所は喪失しているのであり、差異を想起させるのが佐由理の予知夢であった。

2.塔の機能と潜在性

 塔は、周囲の空間を現実世界とは異なる平行世界の空間と置換する機能を持つ。睡眠症に陥る佐由理は、覚醒すると伝えなければならない何かを喪失したと感じるが、覚醒前と後では、「記憶は非連続的で、喪失の回復という定まった具現化の過程よりは潜在性の生成変化的な表れとして捉えるべき」としている。過去の想いは、「記憶より忘却に属するものとして潜在的なものを形成する」。

3.夢・幻という無根拠性

 浩紀は佐由理の夢と接続し、佐由里を救うには塔に連れていくしかないと判断する。ここで病の回復というミクロな枠組みと、国家的主権の確立というマクロな枠組み、双方の「損傷の回復」が焦点になる。浩紀は「不可能なものを肯定し信じている。」ことから、ドゥルーズの『シネマ』に照らして、浩紀の行動は「新しいものが生成する潜在性の論理に対応している」となる。

4.機械の場所と外の思考

 意思の固さと飛躍する行動から、浩紀は「機械の隠喩で捉えられ」る。ドゥルーズは機械の特徴を、「①「下界設定=マイナー化」と②再帰性の機能を備えた物理学的因果性」としている。①は塔をつくった祖父の行為は個人目的の横領に、②は世界の破滅と少女の救出が接続することに該当する。

 そして浩紀はその後、佐由理を幻視し続け、潜在し続ける。佐由理にとっては塔=機械からの干渉により、浩紀は関係ない人間として意識される。そもそも「わたし、何かあなたに言わなくちゃ。とても大切な、消えちゃった。」というフレーズが、浩紀が「佐由里を他者として「見ること」を受け入れさせられる物語」だったのである。

5.新海テクスト様式と潜在性

 新海様式では、「恋愛の発生とその実現の過程がなく、恋の相手は恋する主体の外部ではなく内部として描かれる」。「ヒロインの恋敵の女性の存在感は希薄であり、主人公のヒロインへの想いを揺るがなさい」。「自己の想いだけが顕在化し自己の論理の正当性が示される」。「コミュニケーションの不可能性は、恋の相手との接続が潜在的であることと相まって、二人が現実には結ばれない帰結を生じさせる」。

 本作品では、佐由理は救出という行為を通じて浩紀にとっての「他者性を抑圧されてしまう」。結果、潜在性は境界の崩壊をもたらし、「個人の暴力性が暴露され、眠る女=他者への応答=責任が浮上する」。塔の破壊は責任が生じることから、「二人が結ばれることは困難であり、佐由理の記憶の忘却は事態に対する責任=応答のパフォーマンス」として機能する。潜在性の顕在化による想いの破綻となる。

 

 以上。

ドゥルーズ解釈の適切さについては、私の主眼にないのでさておきたい。ドゥルーズの分析手法を用いて、本作品をまとめてみました、というのがよく見て取れる。やや強引な部分も散見され(同一性の説明や、浩紀=機械の説明など、うーん…)、ストーリーをただなぞっただけの部分もちらほら。ドゥルーズを使ったことの効果は再度検証されるべきだろう。一番思うのは、せっかくアニメーション評論をやっているのに、ストーリーとその記号に終始し、映像の分析、ショットの分析が不在になってしまっている。世のアニメ評論ブロガーに比べて、分析対象がアニメであることへの意識がやや…。

但し、最後の結論として、 潜在性の顕在化と他者性の抑圧の暴露から結ばれないことを説明した部分などはナルホドと。

こういう分析手法を用いながら、『君の名は』を振り返るというのも一つ。

 

ファンタジーのイデオロギー 現代日本アニメ研究 (未発選書20)