フォーリン・アフェアーズ 1月号

アメリカでトランプ大統領が就任してから一週間近く立つが、まだその全貌・思想は見えてこない。部分的には選挙戦通りに動き始めたのが分かるものの、では選挙戦の主張のうち、どこまでを実際に履行するのか、まだ知る由もない。いったいメキシコとの壁の費用の払い手はいるのだろうか??

その中僅かに見えてきているものとして、国際秩序に対する嫌悪が挙げられる。TPPNAFTAという経済的な多国間協調体制のみならず、EUやNATOのような、より政治的な体制にも舌鋒を繰り広げている。そして、一足先に体制からの"足抜け"を表明した英国のメイ首相とは、早々に会談を設定するという徹底ぶりである。

ヨーロッパでも体制を忌避する流れが起こりつつあるなか、秩序の担い手であったアメリカが拒否するとなると、第二次大戦以降から続いてきた国際協調の動きは途絶えてしまうのだろうか?『フォーリン・アフェアーズ 1月号』はまさしく、その点に大きくフォーカスを当てている。

ところで先日のエントリーで、雑誌『アステイオン』の良さについて語った。しかし、国際関係について日本語で読める、最も優れた雑誌は本誌『フォーリン・アフェアーズ』をおいて他にないだろう。英語版とは載っている記事がやや異なり、翻訳サイドの思惑が編纂に入ってきているのが余計だが、概ね優秀である。主に英米の研究者およびテーマによっては全世界の実務家が筆を執る本書は、アメリカという国がグローバルにコミットしていくその姿勢をも窺わせてくれよう。

さて話を戻して、アメリカの担うリベラルな国際秩序について。本誌の論者の殆どは、残念ながらリベラルな国際秩序が衰退していることを認める。但しスタンスは微妙に異なり、ロビン・ニブレットは世界大で「リベラル国家」対「反自由主義国家」(あるいはポピュリスト)の対立が起こっていることを訴える。一方でジョセフ・ナイは、さすがソフトパワー論者であり、あくまでアメリカ国内の問題とする。彼のソフトパワー論は、衰退するアメリカ(と言っても圧倒的優位にあったのだが)に対して、いやいやアメリカにはソフトパワーがあるから引き続き偉大なのだ、とアメリカへの誇りを感じさせるものだったが、本論では中国やロシアは(内心はさておき)秩序に真っ向から戦う存在ではないとして、ワシントンのポピュリスト政治こそ国際公共財を毀損し、結果としてアメリカも利益を損なわせるものだと主張する。引き続きハードパワーではない、国際秩序やネットワークを重視する。

面白かったのは、ナイと近しい意見を持ちながら、対立するようにも見えるコリ・シェイク(Kori Schake)の"Will Washington abandon the other? The false logic of retreat"。オバマ政権は対外関与を減らし、burden shiftingを進めていた。トランプ政権はこれを強化し、offshore balancing(ここでは、ミアシャイマーとウォルトの論考から「台頭する国家を牽制する役目を他の諸国が主導するように促す」ことだとする)まで進めるだろうと予想する。これに対し、Robert J. Lieber "Retreat and its consequence"からオバマ政権の撤退がアメリカのコストを増大させたと説いているとともに、Eliot A. Cohen "The Big Shock. The limit of soft power & the necessity of militaly force."から、軍事介入の有用性に言及する(副題のソフトパワーの限界、とはナイに対する何とも皮肉である)。ただオフショアバランシングを押していくことは、アメリカの同盟国が侵略国に宥和的になってしまうリスクもあるのだ。トランプ大統領は、オバマ政権のシリアに対する空爆を「ピンで刺す攻撃」だと揶揄して政治的な訴求を得たが、今や彼は、もっと柔軟な政治的アプローチを有していることを知っているはずだと締める。 

全く然りで、極論を言えばアメリカが守ってくれないなら対立する中国側につけばいいのだ。彼らも別の国際秩序を作るべく奔走しており、その流れに乗っかるだけでよい。それが不満なら必要に応じて同盟国を見捨てない努力をしなければならない。リベラルな秩序はゼロサムゲームではないので、別のアプローチが必要そうだが。。。

今のところ、トランプ外交はよく言われるレーガン外交よりも、ニクソンを思わせる部分もある。彼自身がMad man(ニクソンはMad man theory(狂人理論?)を核抑止の論理に適用した) であることもあるが、70年代の三角外交にも見えてきそうだからだ。ロシアと近づき、中国と対立するので、当時とは逆であるが。その場合、当時は中ソの対立があったことから米中vsソ連の構図を作り出せたが、今は中露関係に問題は感じさせないので、それだけでは中国との宥和はまだ難しそうだ。むしろティラーソン国務長官マティス国防長官はどんどん中国を煽りそうにも思える。となると、中国に対立できる同盟国のプレゼンスは上がるだろう。同盟国は裏切る覚悟を見せることで得られるメリットはあるかもしれない。その際に最後に米国と上手くやれた場合の日本は、案外非国際秩序サイドなのかもしれない。

 

フォーリン・アフェアーズ・リポート2017年1月号 (フォーリン・アフェアーズ・レポート)

フォーリン・アフェアーズ・リポート2017年1月号 (フォーリン・アフェアーズ・レポート)

 

 

西田谷洋『ファンタジーのイデオロギー 現代日本アニメ研究』

新海誠が流行っている内に本書は紹介しておきたい。正確には、新海誠がというよりも、「君の名は」が流行っているというのが適切だろうが、それでも新海誠作品が社会現象にまでなるというのは驚きだった。秒速5センチメートルは、明らかに普段アニメを見ない人も見ていて、一般層には一番ヒットしやすいのでは、とは思ってはいたが、まさかここまでとは。ここ数年、ポスト宮崎駿論争起こっていたが、細田守は先細り、庵野はオタクビジネスの呪縛から逃れられず、というなかで、新海誠しか押し出せる人はいないので、格好の材料になっている気がしないでもない(なお、同じ年に片渕須直の『この世界の片隅に』がヒットしているが、こちらは同じくジブリ高畑勲に重ねる向きが多いが、面白い偶然だ)。

本書は、近代日本文学を研究領域とする著者により、全10章で構成されたアニメ分析である。様々な作品が分析対象となるが、その際の分析枠組となるのはポストモダンの哲学書であったりする。例えばテロリズムを描いたCANAAN閃光のハサウェイを通じて、グローバリズムに基づく大きな物語に対比された、異質性が表象されているとし、自発的に主体化されない女性が示されているとする。またBLACK LAGOONを通じて、テロの連鎖を忘却せずに記憶することが肝要だと主張する。このあたりは、作品のテクストへの寄り添いが不足して、単なるポモをなぞっただけにも見える。

一方で、多様な読みを明らかに促す「輪るピングドラム」の分析は、作品自体が作中に分かりやすい「読み」を配置してくれてるだけあって、うまく解きほぐしてくれる。いかなるストーリー展開が、最終的に救済へと繋がっていくのか。その過程の描写は、何のメタファーになっているのか、が示される。ここで対置される作品は、「銀河鉄道の夜」や、村上春樹「かえるくん、東京を救う」である。ただし、作中で出てくるあからさまな「ヒント」を使ってそのまま説明するので、鬼才・幾原邦彦の掌の上で踊ってるだけにも見える。ピンドラ論の締めは以下である。

新自由主義体制下の主体は、根源的な体制変換へと向かう創造力を奪われ、排他的な共同体を維持する消費に隷属しているのである。こうして『輪るピングドラム』は家族愛とテロリズムを消費するテクストとして現動化する」。凡庸と言えば凡庸ではないか。

 

さて新海誠論は、「雲の向こう、約束の場所」がテーマである。まずは議論をまとめて見よう。著者は、本作品がドゥルーズ的な装置で読みうるテクストであると主張する。

1.同一性と差異

 浩紀が「告白をしないしされてもいない」ことから、「自らの思いと対象が存在するだけで充足している」人物であり、自己内部で世界が反復しているのだ、と言う。また約束の場所について、コードの入力として、約束を守る/守らないという条件選択の反復に過ぎないことから、恒常的に反復される世界であるとする一方、時間が流れることで差異が存在する。浩紀のモノローグ時点では、約束の場所は喪失しているのであり、差異を想起させるのが佐由理の予知夢であった。

2.塔の機能と潜在性

 塔は、周囲の空間を現実世界とは異なる平行世界の空間と置換する機能を持つ。睡眠症に陥る佐由理は、覚醒すると伝えなければならない何かを喪失したと感じるが、覚醒前と後では、「記憶は非連続的で、喪失の回復という定まった具現化の過程よりは潜在性の生成変化的な表れとして捉えるべき」としている。過去の想いは、「記憶より忘却に属するものとして潜在的なものを形成する」。

3.夢・幻という無根拠性

 浩紀は佐由理の夢と接続し、佐由里を救うには塔に連れていくしかないと判断する。ここで病の回復というミクロな枠組みと、国家的主権の確立というマクロな枠組み、双方の「損傷の回復」が焦点になる。浩紀は「不可能なものを肯定し信じている。」ことから、ドゥルーズの『シネマ』に照らして、浩紀の行動は「新しいものが生成する潜在性の論理に対応している」となる。

4.機械の場所と外の思考

 意思の固さと飛躍する行動から、浩紀は「機械の隠喩で捉えられ」る。ドゥルーズは機械の特徴を、「①「下界設定=マイナー化」と②再帰性の機能を備えた物理学的因果性」としている。①は塔をつくった祖父の行為は個人目的の横領に、②は世界の破滅と少女の救出が接続することに該当する。

 そして浩紀はその後、佐由理を幻視し続け、潜在し続ける。佐由理にとっては塔=機械からの干渉により、浩紀は関係ない人間として意識される。そもそも「わたし、何かあなたに言わなくちゃ。とても大切な、消えちゃった。」というフレーズが、浩紀が「佐由里を他者として「見ること」を受け入れさせられる物語」だったのである。

5.新海テクスト様式と潜在性

 新海様式では、「恋愛の発生とその実現の過程がなく、恋の相手は恋する主体の外部ではなく内部として描かれる」。「ヒロインの恋敵の女性の存在感は希薄であり、主人公のヒロインへの想いを揺るがなさい」。「自己の想いだけが顕在化し自己の論理の正当性が示される」。「コミュニケーションの不可能性は、恋の相手との接続が潜在的であることと相まって、二人が現実には結ばれない帰結を生じさせる」。

 本作品では、佐由理は救出という行為を通じて浩紀にとっての「他者性を抑圧されてしまう」。結果、潜在性は境界の崩壊をもたらし、「個人の暴力性が暴露され、眠る女=他者への応答=責任が浮上する」。塔の破壊は責任が生じることから、「二人が結ばれることは困難であり、佐由理の記憶の忘却は事態に対する責任=応答のパフォーマンス」として機能する。潜在性の顕在化による想いの破綻となる。

 

 以上。

ドゥルーズ解釈の適切さについては、私の主眼にないのでさておきたい。ドゥルーズの分析手法を用いて、本作品をまとめてみました、というのがよく見て取れる。やや強引な部分も散見され(同一性の説明や、浩紀=機械の説明など、うーん…)、ストーリーをただなぞっただけの部分もちらほら。ドゥルーズを使ったことの効果は再度検証されるべきだろう。一番思うのは、せっかくアニメーション評論をやっているのに、ストーリーとその記号に終始し、映像の分析、ショットの分析が不在になってしまっている。世のアニメ評論ブロガーに比べて、分析対象がアニメであることへの意識がやや…。

但し、最後の結論として、 潜在性の顕在化と他者性の抑圧の暴露から結ばれないことを説明した部分などはナルホドと。

こういう分析手法を用いながら、『君の名は』を振り返るというのも一つ。

 

ファンタジーのイデオロギー 現代日本アニメ研究 (未発選書20)
 

 

佐藤亜紀『1809─ナポレオン暗殺』

タイトルの通り、ナポレオンを暗殺しようとするウストリツキ公爵に巻き込まれた、仏軍工兵隊パスキ大尉の話ではあったが、一方で暗殺に関する話ではない。公爵と接触してしまったために、警察や、公爵の愛人等々と関係を持つことになってしまい、いくつかのコンフリクトを起こしながらナポレオン暗殺への関与を深めていく、、、という活劇もの。

どんな書評を読んでも誉められるポイントになるのはディティールの緻密さ。フランスの図書館で、私家版の日記を捗猟して当時の仏軍工兵について調査したとあって、その圧倒的な知識量には平伏するしかない。

一方で、解説で福田和也が人物造形を賞賛しているが、こちらはどうだろう。人間的な歪みも何もかも、出来すぎというか、作られた感じが強い。エンタメ小説なのだから仕方がない、と言われてしまえば言い返せないのだが、やや古い言葉で言えば中二的というか。主人公サイドの色男ぶりとか、ね。(小谷野敦ガンダムのノベライズみたいだと言っていたが、言い得て妙である)。活劇ものとして見るには、葛藤も、ピンチも少なく、ミステリーとして捉えるには謎が全面に出てこない。ナポレオン暗殺の動機や、ウストリツキ氏についてのバックグラウンドは最後に語られるものの、計画の杜撰さや、人間形成の単純さで肩透かしを食らってしまった。作り込みは良いのだけど、、、うーん。

 

1809―ナポレオン暗殺 (文春文庫)

1809―ナポレオン暗殺 (文春文庫)

 

 

悠木碧『トコワカノクニ』

ピンク・フロイドは名盤『狂気(dark side of the moon)』を製作した後、かなりの迷走をしたらしい。電子楽器をひとつも使わずにアルバムを作ろうとか考えもしたが、結局、元フロントマンであるシド・バレットに捧げる『炎(wish you were here)』という、前作よりもややロッキンなアルバムになった。これは試みなかった成功例として語り継がれている。

炎 ~あなたがここにいてほしい~

炎 ~あなたがここにいてほしい~

 

 

悠木碧は1stフルアルバム『イシュメル』という声優業界で近年稀に見る名盤を作り上げた後、恐らく悩んだのではないだろうか。ピーターガブリエル期のジェネシスにも似た、過剰な演出のシアトリカルなプログレッシブロックとも言える作風で通巻した作品集は、もう「やりつくした」と言ってよいくらいのものだった。そのなかで出された3rdミニアルバム『トコワカノクニ』だが、ケルト神話を語源に取っているが、音楽性も歌詞もあまり繋がりはない。テーマはキメラ、らしい。同じ70年代プログレでも、音楽性はgentle giantが近いのでは、と踏んでいる。

オクトパス

オクトパス

 

むしろgentle giantよりも振り切っている部分すらある。即ち、変拍子が刻まれる音楽は、いっさいの楽器を使わず、ただ声だけを多重に重ねて、完璧にコントロールされて和音を構成する。すべてが悠木碧の声なのに、それでいて寸分狂わぬテンポ、音程なのだから、まったく人の生きた呼吸の感じられないサウンドに仕上がっているのだ。コーラスが完璧に平行移動するあたりは人間を彷彿とさせる何か、でしかない。同じ人間が、同じ呼吸で歌うことは、現実に近くてなお、現実に絶対にありえない光景である。フロイトドッペルゲンガーという不気味なものについて論じたわけだが、非人間的な多重の悠木碧、これをグロテスクと言わずして何と呼ぼう?

 ここまでコンセプトを固めたアニソン・声優の名盤は案外少ない。やや古くは清水愛ゴスロリ声優の代表格だったし、アルバムも評判は悪くなかったが、イメージに比して作り込みは緩かった(中原麻衣とのMVは良かったけど、曲は…)。90年代はもっと弱かった。ここまでの作り込みは悠木碧による強固なコンセプト意識と、作詞家・藤林聖子というコンビ、そもそもフライングドッグという素晴らしいレーベルがあってこそかと思うが、声がリズム隊をこなすというアイデアを体現できたのは、他でもない悠木碧自身の声質の広さ、上手さだろう。昔、百花繚乱サムライガールズという糞アニメのラジオ番組で、寿美奈子と二人で即興のキャラクターで告知を行っていたのだが、実力差がありすぎて寿美奈子はやや悲惨ですらあった。声に独特の震えがあるので、特徴が強すぎると嫌いな人もいようが、やっぱり上手いのだ。

 http://natalie.mu/music/pp/yukiaoi05:悠木碧インタビュー記事

記事で、悠木碧は素晴らしいことを言っている。「あなたの好きな悠木碧もすごく近くに寄って観てみるとちょっとグロいんだぜ」っていう体験をしていただきたかった」。MVに限らず、音楽性でも、さもありなんと言ったところか。グロテスクだからこそ美しい。

 

トコワカノクニ(初回限定盤)(DVD付)

トコワカノクニ(初回限定盤)(DVD付)

 

 

杉本浩一、福島良治、若林公子『スワップ取引のすべて』

私が元々持っていたのは第4版だったが、残念ながら最近第5版が出たとのこと。そこで、買い直してみたところ、割かし修正点は多かったので、概ね満足である。

デリバの世界では、大概スワップから勉強しましょうという古いセオリーがあるらしいものの、スワップについて勉強しましょうとなると、選択肢はほぼ無い。先日、為替はUBSのが定番だと紹介したが、スワップならばコレが定番かつ決定版だろう。

確かに、デリバティブとは交換(スワップ)こそが肝というのは商品構造上、そうだろう。いわゆる金利スワップに始まり、為替も複数通貨の交換であるし(スポット為替のバイセルでは不要だが)、為替予約をすればフォワードポイントを導くために両方の通貨の金利が重要になる(予約は金商法上のデリバではないが…)。

ましてやデリバを組むときにはスワップという考え方は逃れえない。いわゆる悪名だかき為替デリバは商品構造上、2国金利差(やボラティリティ)がプライスの肝になる。あるいは仕組預金だって、短期金利スワップレートが関わる。スワップを無視して、商品を作れないのだ。本書はスワップの基本であるディスカウントファクターの求め方、からの先スタートのレートの求め方に始まり、オプションまで含めたリスク管理、規制、経理まで概観してくれる稀少な書籍である。

 

さて本書は、初版が1992年。日本のデリバ黎明期に、その開発を牽引した長銀出身者が執筆しており、いまだにアップデートを繰り返す名著の一だ。5版へのアップデートについては、リーマンショック以降の規制への対応が中心であるかのように喧伝されているが、修正はそれだけで留まらず、(私の記憶違いで無ければ、という留保付きではあるけれど…)一章でスワップの基礎と言える概念についての簡単な解説が追加されていて、これはかなりありがたいのではないか。ISDA Master読めよ、と言われてしまうかもしれないが、day countについてとか、案外日本語での解説は世の中に少ない(そもそも最新版のISDA Masterはネットで無料で拾えたりしないのだ)。4版の頃より、全体的に無味乾燥な感じは減退していて、読みやすさが向上している。もちろん、規制についてのアップデートも多く、CCPや諸々の担保金、バーゼル規制等々、実務家の頭を悩ます問題も最新の情報が入っている。

ただ、アップデートされてまだ古さは残るなぁ、と思うのは、例示の部分。これはもう、長銀がリッチョーとかワリチョーとか売ってた名残なのか、運用商品の説明が多く、レートはいまの現実離れしている。それよりも現場的には違う商品例が見たいんじゃ、と思わなくもない。ま、これはこれで、見たことない商品を学ぶチャンスとも捉えられるのか。

 

スワップ取引のすべて(第5版)

スワップ取引のすべて(第5版)

 

 

村田晃嗣『アメリカ外交 苦悩と希望』

トランプ氏が大統領選に勝利してからというもの、彼の今後の政策がどう出てくるのか、各長官の情報についての噂が出る度に大袈裟なまでに報道がなされている。大統領選で彼が主張していたスタンスと選ばれている人材にいったい整合性があるのか、あの選挙中の発言は嘘だったのか、あるいは実行力を見せつけてくれるのか、まったく先行きは見えない。特に財政政策や、金融の規制をめぐって、相場は荒れに荒れている。Brexitのとき、米金利があそこまで下がるとは思っていなかったが(テールリスク狙いのコール勢すごい)、いまや逆方向に思わぬ動きをしている。

それではトランプという人物は、アメリカ史上に類を見ない怪人物であるのか。私の感覚的には、ある種のアメリカ人的な性質の持ち主にすぎないのでは、と思っていたし、本書ではミードに従って、大統領を四つの類型にまとめているが、十分に類型化されうる人物に考えられる。

四つの類型とは、ハミルトニアン(海洋国家、対外関与積極的)、ジェファソニアン(大陸国家、選択的な対外関与)、ウィルソニアン(普遍的な理念)、ジャクソニアン(国威の高揚を重視)という四パターンであり、トランプ氏はミードによるとジャクソニアンに該当する。http://www.wsj.com/amp/articles/donald-trumps-jacksonian-revolt-1478886196:titleジャクソニアンの復権

本書は、こうした類型を基に、アメリカ外交200年間を大きくまとめあげている。とは言え、村田晃嗣という人はカーター政権期が当初の専門である以上、半分以上は直近30年間の外交史であり、最近のアメリカ外交が簡単にはまとめられている。どちらかと言えばトリビアルな情報が多く、新書らしい新書といった具合。参考文献が日本語で手に入る書籍であることを見れば分かる通り、読みやすさ重視だった。

しかし、ジョセフ・ナイの『国際紛争』の分析枠組みである、「国際システム」「プロセス」を紹介しているが、はっきり言ってその後の分析には全く生かされておらず(申し訳程度にまとめとして使ってはいるが、分析への影響がないのである)、ほとんどカッコつけの領域だった。

 

アメリカ外交 (講談社現代新書)

アメリカ外交 (講談社現代新書)

 

 

 

黒崎輝『核兵器と日米関係 ─アメリカの核不拡散外交と日本の選択1960-1976』

1. シンゴジラ評論から

twitterで著名のMValdegamas氏(旧・スースロフ氏)が、ブログ(シン・ゴジラ論のあとのシン・ゴジラ論 - Valdegamas侯日常)で書いたシン・ゴジラ評。政治史、外交史的な立場から評論した数少ないエントリーとして、ネット界隈で注目を集めていた。

まとめると主張はシンプルで、国内政治において首相の決定があまりにも簡単に行われていること、外交においてアメリカに対する「従属」ばかりがフォーカスされ過ぎていることの2点に違和感を覚えたというもの。あまり作品を語るときに、テクストの外にある社会的な事実を、批評の参照点にしたくはないのだが、あえて既に語り尽くされたそうした言説を凡庸に繰り返すならば、東日本大震災に対する首相の無力さと、米軍に頼った事実を(ユーモアとして、あるいは、当てこすりとして)作品に重ね合わせることで政治や外交について訴えたいことがあったものと推察できる。きっと誰かの、そうした政治的な懸念が表出した結果があの映画であったのだろう。が、ここではあまりシン・ゴジラ自体について深入りするつもりはない。

本エントリで言いたいのは、そのうちの外交部分における、米国に抑圧されてきたという日本人の外交史観である。氏は、過去のエントリでも孫崎氏の残念な書籍を批判しているように(戦後史の正体、だったか)、日本外交とは従属の歴史では無かったと何度か主張している。実際、ここ十数年に出版されている、詳細な一次史料に基づいた日本外交史についての研究は、その主張を十分に裏付けている。のにも関わらず、孫崎氏のような左派に限らず、多くの右派も同様に、未だに「自虐史観」(右派が使いがちな用語ではあるが、右派も左派と同様の陥穽に嵌っていると思う)に陥っている。シン・ゴジラという作品は、そうした歴史観の現れだった。(の割には、首相は一元的な政策決定者として描かれており、非常に優秀だった。)

 

2.核兵器と日米関係から

話は戻って(というか一度も本書をしてはいないが)、『核兵器と日米関係』である。なぜシン・ゴジラと絡めて本書を紹介しているかというと、シン・ゴジラにおいて決定的な要素であった「核」という、米国が独占的に管理して日本は何もできなかったというイメージの強い兵器について、実は1960年代に入って日本が主導的に米国を動かしていたことを非常に分かりやすく示してる。言い換えれば、米国は日本を好きにコントロールできた訳ではなく、外交の結果とは、日本の政治との調整の産物に過ぎなかった。そして、日本にも核を持つ可能性があった、あるいは持とうとする事実(佐藤首相は、核保有への欲求は持っていたらしい)が存在しており、焦点になりやすい「核」ですら、決定的な従属関係にはなかった、ということである。(言葉の定義次第ではあるが、必ずしも従属関係がなかった、とまで言うつもりはない。少なくともハイラーキー(階層性)はあっただろうから。)

本書では、特にNPT条約の調印(ずいぶん長いこと日本側は調印を留保し、国務省をやきもきさせた)、およびロケット開発について、日本と米国の乖離を示している。特に後者については、既に平和的利用の名の下に原子力を利用していた日本にとって、ロケットを自国で開発するというのは、そのナショナリスティックな自尊心を充足させるのに重要なファクターであった。ロケットを作れてしまえば、核兵器化するのはあまり難しくないのだから、それもむべなるかなと思われる。また、国際政治の現実主義的な観点からすれば、こうしたインセンティブは、中国の核開発に基づく危機感に由来するナショナリズムであり、かつ同盟の「見捨てられる不安」によるものと言えるだろう。そうした理由から、日本はロケット開発について、米国の技術協力には消極的に対応し、自国での開発にかなりこだわったようである。

後知恵的には、日本は核兵器保有していないのは所与のように見えるが、より子細に一次史料(本書ではFRUSが多いだろうか)を使って歴史を追いかけてみると、もし、ニクソンによる米中の接近(いわゆるニクソンショックの内の一つであり、その後米ソデタントを引き起こした)がなかりせば、それでも尚、日本は非核兵器国という状態を維持していたのか、当然の疑問として湧いてくる。

さておき、本書は既に容易には手に入れられないかもしれないが、「自虐史観」(左派であれば、「対米従属」的な戦後史であり、右派であれば押しつけ憲法、押しつけ同盟)を抱いている多くの人々に読んでもらいたいと思う。2006年サントリー学芸賞受賞(黒崎 輝 『核兵器と日米関係』 サントリー学芸賞 サントリー文化財団)。